イノベーションの発見 = f(割れたクラゲの皿)

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あらすじ:お皿が割れるってことは、イノベーションなんだよ!どんなに声高に叫んだところで、こんな戯言に耳を貸す者はいないだろう。あんなに大好きだったお皿が割れるべくして割れたなんて、どうあっても信じられない私は、この世を支配しているという因果律について思いを巡らせるのだった。とことんモノを大事にできない私のコラム第五弾。 / やまびこ恵好

家に帰ると、流しでお皿が割れていた。それも二枚、パステルなクラゲたちが描かれている波佐見焼の逸品だ。

2年くらい前、どこかの水族館で迷いに迷った挙句、異なる絵柄のものを購入して帰った思い出の品だったが、片方は縁が僅かに欠け、もう一枚は1:9くらいの割合でにきれいに分割されていた。

 

現場検証と密室

賃貸のワンルーム、ぎゅぎゅっと狭いキッチンの猫の額ほどしかない流しには、その時いくらか洗い物が放置されていたはずだ。しかしこの皿については確かに洗った記憶がある。流しの上には水切りのステンレスラックがあって、いつも洗い終わった食器はそこに整列させれられることになっているから、この皿だってそこにいたに違いない。

家のカギはきちんと掛かっていたはずだし、まめに皿を洗ってくれるような同居人もいない。となるとこれは完全なる密室殺人(皿)だ。地震ポルターガイストか、はたまた借り暮らしの小人の仕業かは分からないが、それくらい意味不明でありえない現象だと言える。

ゲン太君程度の推理力しかない私にとって、この事件は迷宮入り確実かに思われた。いやちょっと待て、世界に予想だにしないことは数多くあっても、ありえないなんてことはありえない。

 

姿の見えない犯人と常識的思考

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世界は万物普遍の物理法則に支配されている。みみずだっておけらだってみつばちだってそうだ。皿が欠ける・割れるということは、その部分に何かしらの物理的負荷がかかったということに他ならない。このあたりから一つずつ整理していけば、犯人のしっぽが掴めるかもしれないじゃないか。

ほかの食器にダメージがないところを見ると、私がラックに不安定な状態で皿を放置してしまっていて、二枚の皿は何かの拍子にラックからするりと流れ落ち、互いにぶつかり合って割れてしまったに違いない。そうでなくては説明がつかない、常識的には。

しかしどうだろう、死亡推定時刻にオフィスでのほほんとパソコンに向かっていた私には不可知な領域で何かが起こって、帰宅した際には「皿が割れている」という状態だけが観測できた。常識の範疇だけでこの事件の犯人を推定し、因果関係を特定するのは必ずしも論理的ではない。

なぜなら、”何者かが私の家の錠を破って侵入し、皿をあくまでごく自然に割った後、なにもせず施錠をして帰っていった”という可能性が、ゼロに限りなく近いとしても確かに存在するからだ。

この場合、皿が割れた原因は「家のカギが二重ではなかったから」かもしれないし、「悪意を持った何者かに私の不在を知られてしまったから」とも限らないし、「誰かに恨みを買うようなことをしてしまったから」と言うこともできる。物事の原因はしばしば特定し難いものなのだ。

 

犯人探しの旅と普遍の因果律

哲学者のヒュームは、異なる二つの事象の間には本来因果関係はなく、原因や結果というものは、人間が精神世界の中で勝手に結び付けた概念に過ぎないとまで言い切ったと聞く。

私たちの身の周りではこういった因果関係の推定が横行しているが、果たして物事に因果関係なるものは存在するのだろうか。もしするのだとして、私の大事な皿を割ったのは、一体どこのどいつだというのか。

仮に犯人が家宅侵入罪を犯した何者かであるとした場合、金田一少年のように自信たっぷりに彼を指さすことが望まれている場面であるなら、私はこのあと彼の足取りを追いに出かけたことだろう。

 

膨張する犯人とアンチノミー

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よしんば彼を捕らえたとして、本当に犯人だと言い得るのだろうか。あるいは、どこかで彼に不快な思いをさせてしまったかもしれない私自身が犯人であるとも言えるし、そういう行いをする自分を作り上げた周辺の環境こそ真の犯人であるとも言えるのだ。

その元凶は環境を作った歴史、歴史を作った人類、人類を作った母なる大地へと繋がる。因果律に縛られたままの思考は、どこまでもどこまでも真犯人を追い続け、宇宙の彼方へ発散してしまった。

カントは、人間には本来、このような事象と事象との因果関係を推定する理性と呼ばれるシステムが認識の機能の一部として備わっていると考えた。

しかし一方で彼は、原因にはその原因が、その原因には...と因果律そのものを論証しようと試みる際、人間の認識の範囲では大宇宙の外側に展開する「無」や、「無限」に広がる宇宙自体を正しく知覚できないことから、こういった課題は人間の理性では扱うべきではないアンチノミーであると言う。

確かに二律背反だ、私のお気に入りの皿を割った原因が「ある」にしても「ない」にしても、それらはどちらも大宇宙の法則と偶然性の中に吸収されてしまうのだから。

 

落ち込んでいると作業が捗る

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全銀河を巻き込む犯人探しにほとほと疲れてしまった私は、しょうがないので皿とその破片を救出した後、とりあえず流しにたまった洗い物を先に片づけることにした。

どうということはない日々のルーティーンの一部。むしろ、こういう少し落ち込んでいるときの方が単純作業は捗るように思える。きっと作業自体の意味とか自分のすべきこととか、そういう余計なことを考えずに済むからだろう。

 

検死と価値の本質

濡れた手を薄いブルーのタオルで拭いて、もはやガラクタと化してしまったかつてのお皿たちをテーブルに並べて眺めてみる。

近くで見ても遠くで見ても、うん、確かに割れている。改めて、失われてしまったものの大きさが背中にのしかかってきた。あれだけ毎日使ってきた皿だ。あの捨ててしまった、古いフライパンの次に大事なキッチンのお供だったのに。

欠けた方の皿の輪郭を、指でゆっくりとなぞる。指をかろうじてケガしない程度には鋭く、はっきりとした窪みだ。こっちはまだいい、まだ丸いからいい。もう片方はどうか、別れてしまった二つの破片を持ち上げてもとの形にくっつけてみると、小さいほうの破片はほとんどすっぽり隙間に収まることが分かった。

一瞬なにやら嬉しいような気がしたが、これは大した発見ではない。それでお皿が元のままにきれいに戻るわけではないのだ。しかし私はあることに気が付いた。私の内部でとぐろを巻いているこのもやもやの正体は、「お皿が割れてしまったことへの悲しみ」ではなく「もうあのお皿が使えないことへの悲しみ」だったのだ。

 

代用品とマスプロダクションの罠

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そうか、買った水族館の名前すら覚えていないような状態だったが、代わりのものを探せばよいのだ。なあに、私たちにはGoogleという強い味方がついている。どれだけ長い時間が掛かったとしても、私は再びあの皿を手に入れて見せる。

「お皿 クラゲ」と打ち込みエンターキーを押下すると、目的のものはかなりあっさりと見つかってしまった。しかもなんということだ、楽天市場でふつうに売っていた。

さて、いよいよ今度ばかりは安堵では済まなかった。私が大事に、と言う割には雑に、しかし確かな愛情を注いで使っていたあの皿は特別でもなんでもない、世の中にごくありふれた存在だったのだ。

本来、私はこのことをよく知っていたはずだった。社会的分業化が進み、物量を担保するため生産と消費の距離感が乖離していく過程で、私たちの手が届くものはあまねくありふれた大量生産品に過ぎないということを。

知識の上では知っていたが、それを実感するのはとても久々の出来事だった。目の前にある薄くて硬い土くれが、本当にただのガラクタになってしまったように思えた。さっきまで煌めく思い出の破片だったものが、ものの一瞬で不燃ゴミになった瞬間だ。

 

シュレーディンガーの皿

いや、本当は割れてしまったその時から、これはゴミだったはずだ。でも会社であくせく働いていた私にとってはまだ、確かに愛用している皿だった。それが、私が家の鍵を開け、中を覗いた瞬間にガラクタである状態が確定してしまった。言うなればこれは、「シュレーディンガーの皿」だったのだ。

量子力学の世界では、観測者の有無によって粒子の様相が変化することがあるらしい。もし私が今日、家に帰らず友人と朝まで飲み明かし、そのまま翌日も出勤していたなら、このかわいそうな皿はそれまで割れずに、ラックの中に鎮座していたかもしれない。

ちなみにシュレーディンガーは、この一見パラドキシカルな理論を批判するため、猫と密閉された箱とガイガーカウンターを用いた思考実験を提示したに過ぎないらしい。

批判的な立場をとった人間の名前が、例え話の秀逸さから理論の代名詞として後世に残ってしまったのは皮肉な話だ。

量子力学の世界と、猫や皿の生死というマクロな世界を同列に論じるのもどうかと思うが、私という観測者の存在によって、この皿はまず割れていることが、そして世の中にありふれた存在であることが、確かに確認されてしまったのである。

 

かけがえのないものと認識論

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またしても私の中で不毛な犯人探しが始まるかに見えたが、奇妙なことに、私は再びこのガラクタに、なにか特別な価値を見出し始めていた。

確かにこれは大量生産品だろうが、今はなんといっても割れているじゃないか。しかも捨てられずに柄の異なるペアで、破片まできれいに残っている。何より、世界でどこを探したって、これと同じ割れ方をした「これと同じ皿」など見つける由もない!

かけがえのない宝物から不燃ごみへと転げ落ちたクラゲの皿は、しかし不死鳥のように蘇った。早速割れてしまった皿の修復方法を調べてみると、業者に頼むとか金継ぎするとか、中には牛乳で煮込むと元通りになるなんて記事も見つかった。

まだ助かる道はある。土くれからできたアダムの子孫である私には、目の前の破片ですら自分の一部に感じられて然るべきだったのだ。

カントは私たち人間の認識はあいまいで、感性、悟性、理性の三つのフィルターを介した概念的なものに過ぎないと言った。

しかし私は思うのだ。物事本来の姿形を捉えることはできなくても、いや、できはしないからこそ、人間の認識にはゴミを宝物に変える力があるとも言えるのではないだろうか。

 

イノベーション

私は急いで思い出の欠片たちをかき集め、これ以上壊れることの無いよう新聞紙で厳重にくるむと、袋に入れて慎重に押し入れにしまい込んだ。

割れた皿を元に戻す方法がいくつあるにしても、まずはこの喜びを言葉にする方が先だ。

当たり前で大切なものを一旦壊し、価値の本質を見極め、そして再構築する。私は今日、イノベーションを見つけたのだ。

 

 

今日の関数:

イノベーションの発見
= 0.9*割れていても特別な宝物 + 0.1*割れてしまったどこにでもある宝物

 

 

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