理不尽な世界に抗うということ = f(ちっちゃい蜘蛛)

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あらすじ:世の中には理不尽があふれている。部活、恋愛、会社、命。その宇宙規模で覆しがたい恐怖に相対したとき、私たちはいったいどうすればいいのだろうか。小さな蜘蛛を逃がしてやった話から、少しずつじっくり考えてみようという、それだけのコラム第二弾。/ やまびこ恵好

 

視界の端を、黒っぽい点が跳ねた。

まさに記事がひとつ書き上がらんというところだったため少し億劫だったが、小さい、黒くて、動くもの。となるとぞっとしない。ゆっくりと視線を右に移していくと、なるほど。小さなクモがデスクの上に侵入していた。

ことの顛末はこんなかんじ

地上10階以上のオフィスビルで、虫を見かけることはほとんどない。とはいえ、たまにこうやって、商品サンプルや社員の荷物なんかにくっついて迷い込んでくることがあるようだ。

隣の席に向かって、「てーん、てん」と跳ねて行くので、慌てて捕獲しようと手を伸ばす。でもこれがなかなか捕まらない。学童の時分にはよく、野原でバッタやらカエルやらを追いかけ回したものだが。

クラフトボスの空ペットボトルによじ登り、私の左手をすり抜けたクモは、眼鏡ケースへと着地。多彩なアクロバットを決めて、黒のスマートフォンに足場を移そうと跳躍したところを、右手でそっと捕らえられた。

潰さぬように、でも逃がさぬように力を込める方法については、まだ身体が覚えてくれていたようだった。

自宅であればこのあと窓からほいと投げ捨てて終わりとするところだが、ここには開け放てる窓などあるはずもなく。仕方なくオフィスを抜け出て、エレベーターを呼びに行くことにした。

命か、プログラムか

午後4時ごろのことだ。まだどこの階も終業前であろう。にも関わらず、下のほうで閊えているのか、エレベーターはなかなか到着しない。待っている間、握りしめた右手の中がガサゴソと騒がしくなってきた。

彼がこの手の中で暴れるのは、自分の身を守るために体に組み込まれたプログラムがそうさせるのである。人間はこういう場合、抵抗が無駄だと感じて何もしないことを選択するらしい。

クモは理解せずただ暴れる。プログラミング的な反射だけではなく、未来を見据えた思考を司るからこそ、人間にのみ魂が宿るのである。

さて、果たしてそうだろうか。

むしろ、どんな絶望的な状況であっても、それを打開するために手段を尽くすこのクモの姿勢の方が、使命感と生きる力、そして魂を感じる生き方なのではないだろうか。

私はこのこそばゆい拳の中に、小さな命を感じていた。

そうなってくると、もうこのままプチリと握りつぶしてしまった方がお互い楽になれるんじゃないか。なんてものぐさなことを考え始める。

しかし、手を綺麗にする手間や、このいたいけな命を奪う罪悪感の処遇についてぐるぐると考えているうちに、エレベーターが到着してしまった。

待たされた甲斐あって、小さなゆりかごは、そのまますいーっと1階まで直行してくれた。これが途中で何回も止まろうものなら、やはり小蜘蛛の命はこの世に無かったであろう。

己に恥をかかせるのは、いつも自分自身である。

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降り際、向かいから乗ってくるスーツ姿の男性と、ばっちり2秒ほど目が合ってしまった。

何やら怪訝そうな顔つきでこちらを見るので、私は右手の小さな秘密を見透かされたような気がして、大変恥ずかしい気分になった。

もちろん「クモの霊魂論」が私の口から洩れ出ていたということではない。でも、ついつい見ず知らずの人の目が気になってしまうくらい、その時の私は繊細な心持ちだった。

今にして思えば確かに、開いた扉の向こうに拳を握り締めた若造が神妙な顔つきで立っていたら、怪訝に思うのも無理はないだろう。恥はいつでもかき損である。

アダンソンハエトリグモ

11月の冷え切ったコンクリートに解き放たれたクモは、一瞬何が起こったのか分からない様子でじっと立ちすくんでいたものの、私が南無南無と手を合わせると、また「てーん、てん」と跳ねて、生垣の中へ消えていった。

デスクに戻って、そういえばなんというクモなのか、彼に訊ねるのを忘れたことに気が付き、「小さい蜘蛛 跳ねる 黒」でGoogle検索してみることにした。※ガッツリ虫の画像が出てくるので注意!!

家で稀に見かけるあの小さなクモは「アダンソンハエトリ」と言うらしい。巣を作らず、自分の脚で獲物を捕らえるハンター。その名の通り小さなハエやダニ、”G”の赤ちゃんなんかも捕食の対象のようだ。

害虫ってなんだよ、失礼な。

私は小さいころからアリや蚊、ハエなどの「害虫」は容赦なく殺害するよう教育されてきたが、クモだけはヤツらを捕食する「益虫」で殺してはならないという家庭も少なくないらしい。これは大変身勝手な線引きだと思う。

雑草という草はない」という言葉が、昭和天皇のお言葉か、牧野富太郎のお言葉かという問題はさておき、クモを殺したいほど気持ち悪い、憎いと思う人にとって、彼らは立派な害虫である。さっきの論で言えば、我々にとっての「害虫」を捕食せずに死んでいくクモの扱いはどうなるのか。そのへんをはっきりしてほしいものだ。

線引きがあいまいな害虫論であるが、”G”、すなわち黒い「奴ら」については、全世界共通、ほぼ満場一致で害虫の王様に選ばれるに違いない。

ちなみに、私があのクモを捕らえてしまったから、かどうかは分からないが(たぶん無関係だと祈りたい)、あの数日後、オフィスに「ヤツ」が出現するプチ騒動があった。その折には、同期入社の女性が瞬く間に命を奪ってしまった。たくましい限りである。

小さな躯体でありながら、単体で大人を絶叫させ、逃げ惑わせ、恐怖のどん底に叩き落とす存在。奴らに対する嫌悪感、敵意と形容しても良いくらいの憎しみは、いったいどこから来たのだろうか。

phobia

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ハエのようにうるさいわけでも、蚊や蜂のように人を刺すわけでもない。実害のないこの説明不能な恐怖的感情を、英語で「phobia」と言うらしい。先述したクモへの理不尽な恐怖ならarachnophobia、高所恐怖症ならacrophobiaといった具合だ。※ここに限って検索は自己責任でお願いしたい。

”G”フォビア形成の要因には様々な学説がある。太古の昔、まだ巨大だった「奴ら」が哺乳類を捕食していた頃の恐怖を遺伝的に覚えている説、は確かに興味深いが、猫は”G”に恐怖を抱かない。むしろ積極的に狩りに行く。

では猫より強い人間が彼らを恐れる理由は何か。それは「親が怖がるから」だそうだ。私はこの経験的トラウマによって形成される論を推したい。

子供にとって、自分を普段あやし、食事を与え、安心をくれる存在である母が、そいつが出た瞬間悲鳴を上げて逃げまわるのだから無理もない。

私は幸か不幸か、大学時代ニュージーランドの田舎にホームステイした折に「奴ら」との同居生活をたっぷりと経験できたおかげで、恐怖心だけはしっかりと克服して帰ってくることができた。

理由のない敵意

確かに恐怖は克服できたものの、しかし敵意だけはどうしようもなかった、というのが私なりの結論だ。奴らが出現すると、どうにも命を奪わないと気が済まない。

火星に送った黒い生命体が地球を侵略してくる『テラフォーマーズ』という漫画は、ご存じの方にはまだ記憶に新しいだろう。

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内容といえば、”人型化した害虫エイリアンに、昆虫の力を付与された改造人間が立ち向かう!”という、大変なイロモノだ。

しかし、今の文脈の中でじっくり考えてみると、人類にとって恐ろしく普遍的なテーマを扱った作品であることがわかる。

そういえば日本では昔から、正義のバッタ人間がバイクに乗って、子供たちを守り戦う特撮番組が根強く支持されているし、それほど突飛な内容でもないのかもしれない。

作中にはアシダカグモの能力を持った青年が、「奴らの天敵」として暴れまわるというシーンがある。この中でもどうやらクモは益虫カウントらしい。

序盤では人間が虫けらのようにただ殺されていく。人間も反撃のために、敵を虫けらのように殺していく。

お互い、相手を取って食べるわけでも、カラスや猫のように戯れで命を奪うわけでもない。「そこにいるから」命がけで殺害する。人間が奴らに抱く感情を、構図を入れ替えてうまく表現していると思う。

ヒトのコミュニティ内における敵意には、あいまいながらも大方なにがしかの理由がある。しかし奴らの敵意に理由はない。その上、現代の日本に生きる私たちは、この「理由のない敵意」を向けられることにめっぽう慣れていないのだ。

もしかしたら、世界的に殺し合いをするしか無かった時代、人種差別や奴隷制が公認されていた時代には普遍的だったかもしれないこの感情を、まざまざと想起させられる。ここがテラフォーマーズのセンセーショナルな点だろう。

一方的な戦争

汚い方向に話が逸れてしまったので、筋を戻そう。

それだけ、私たち人間は、身の回りの小さな生き物たちに対して、一方的な戦争を仕掛けていることになる。あるいは暴力と言ってもいい。

かのクモがもし万が一、隣のデスクに座る女性社員のもとに到達していたら。私が虫を逃がしに行く寸暇を惜しんで仕事に励む勤勉な社員だったら。あるいはエレベーターが来るのがあと少し遅れていたら。彼の命はきっちりしっかり失われていたことになる。

それも彼自身、何が起こったのか理解するまでもなく。

人はともすれば自分が理性的で客観的なリベラルな存在であるという思い込みに支配されがちであるが、我々はむしろ、常に自己、己の帰する集団、種族にとって大変利己的に判断して行動している。

人間様の気分次第、タイミング次第、ご都合次第の理不尽やりたい放題である。

宇宙的恐怖

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私は別にジャイナ教の教義に感銘を受けたとか、動物愛護の精神からこういうことを書き殴っているわけではない。この覆し難い理不尽は決して他人事ではないのだ。

江戸幕府モンゴル帝国もローマもオスマンも、どんな強者でもいつかは敗れてきた。日本という国家も、もはやここから経済戦争的な逆転の望みは薄い。まして人間を打ち破るのがいつまでも人間ばかりとは限らない。

いいやそれどころか、私たちは日々ある一定の全能感の中で安心して生活しているものの、その実際は理解の及ぶべくもない巨大な環境によって左右されている。

生まれた家、地域、国、経済、イデオロギー、宗教、あるいは世界、種族、災害、地球という惑星、あるいは宇宙からその外側まで。

そういう、個人には到底計り知れない理不尽のなかで偶然、観測可能な現象として発生し、そして一瞬のうちに消滅していく。

たまたま身近に自分たちより強大な生命が見当たらないだけで、科学者が顕微鏡で微生物を眺めるように、我々も常に壮大な世界から覗き込まれているのではないか。

完全にクトルゥフ神話TRPGのやりすぎであるが。さて、この巨大な理不尽の中で豆粒大の命に過ぎない私たちひとりひとりにできることは、いったい何だろうか。そしてそれにはどれだけの意味があると言うのだろうか。

理不尽に立ち向かうということ

この意味を考えることが、生きる意味を考えるという事なのだとしたら、現代社会の至上命題とされている、ある一定の「全体」の中で勝ち続けることは不可能に近い。

つまり、「一番になること」に意味を見出し続けるのはとても困難なことだとわかるだろう。

上には上がいて、全体にはさらにそれを包括する全体がある。クラスで一番、じゃあ学年では何番?じゃあ県では?このループにはまった瞬間、我々はこの絶望的な恐怖の前に、ただ立ち尽くすしかない。

意味を自分の外側に求めるのは難しい。そうなると自分に意味を見出してくれるのは自分だけだ。

この考え方は極めて現代的かつリベラルな思考だと思う。近年、ファッションやメディア、価値観といった様々な概念が個別化していることも、大方この影響だろう。

一人の人間にとって、ネットワークから広く見渡せる今日のグローバル世界は、あまりにも大き過ぎたのだ。

せめて私たち非力な人間にできる事と言えば、あの小さな狩人のように慎ましく「てんてん」と跳ねること。

そして、できるだけ恥をかかないように、例えば”小さな虫の命を助けてやる”などの等身大の善行をせっせと積み上げていくことくらいのものだ。

それが、宇宙的理不尽に立ち向かう唯一の方法だ。

 

 

 

さて、いよいよ、果たしてそうだろうか。

進撃の巨人」という漫画はさすがにご存じだろう。

小さな狩人たちが迫りくる巨人に立ち向かうというお話だ。人間が虫けらのように命を奪われていく様は、テラフォーマーズに通じるものがある。

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一世を風靡した本作には、理解不能な恐怖の前に人間が立ちすくむ様が、ダークな世界観の中にありありと描かれている。

私たち一般人の、いたって普通の反応、慎ましく、理不尽にただ流されていく人間の無力さにも共感を覚えた。

ただし主人公は屈しない。常に抗い、戦い続ける。真実を求め、自分の小さな世界を、規定された「全体」を、外へ外へと壊し続ける。

私たちは調査兵団の一員になった気分で、そんなヒロイックな姿に羨望の眼差しを送る傍観者だ。それでいいと思える人はそれでいいのだと思う。私も大概あなたの仲間だ。

しかしあの小さな狩人は、暗いエレベーターホールで私の掌の体温を感じながらも、私に命を握られているその瞬間も、あきらめずにもがき続けた。

どんな絶望的な状況であっても、それを打開するために手段を尽くす姿勢に、私は使命感と生きる力、魂とそして確かな命を感じたのではなかったか。

案外と、ちっぽけな虫けらのような私たちにも、できることは沢山あるのかもしれない。私にとってそれが何かという問題については、とりあえずこれを書き上げてから考える所存だ。

この建物に開け放てる窓がなくて、本当に良かった。

 

今日の私の関数:

理不尽に立ち向かうこと
 = 0.5*意味への渇望 + 0.5*宇宙的恐怖