実家に帰ろう = f(健康診断に行く)

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あらすじ:「なぁ、おい」「私は"おい"なんて名前じゃない!」— 駅前でカップルが痴話喧嘩を繰り広げていた。一年越しの健康診断。お客様番号で呼び出されることに違和感を覚えた私は、名前について悶々と考え込んでしまった。なに大丈夫、これだけ人がいるのだ。次に呼ばれるまでの時間はたっぷりとあるはずだ。そんなこんなで第三弾。 / やまびこ恵好

 

 

健康診断に行ったら、エストが減っていた。

これはここ数年の自分にとっては快挙である。着々と脂身を蓄え続けてきた私の怠惰な生活に終止符を打ったのは、半年前に入会したフィットネスクラブだろう。ロゴが紫色で夜中まで開いているアレである。

半年間、壁に向かって黙々とハムスターの真似事にふけった甲斐があったというものだ。


真冬の健康診断

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私の会社では、毎年10月~12月頃に定期健康診断が実施される。体調を崩したのかマスクをした、いかにも残念な結果が出そうな顔色の中年男性を横目に、いそいそと元の服装に着替え直す。

今日は、私もマスクをしてこなかったことをひどく後悔した。あちこちから苦しそうな咳の音が聞こえる待合室に、半日も押し込められていたのだ。法人向け健診の中でも、このシーズンはさぞ不人気に違いない。

東京新宿は小雨と少しの風、それからこの冬一番の冷え込みに見舞われていた。コートを羽織って更衣室を出る。帰りがけに受付で、健診結果の記入されたファイルと番号の書かれたバッジを回収された。

 

記号:「69番のお客様」

これを見るのはあまり良い気分がしない。このバッジというのが、かれこれ半日、私を「69番さん」というただの記号に貶めていた張本人だからだ。

しかもよりによって「69」。いやに美しい図形である。点対称で、太極図の陰陽勾玉巴のようであり、また二匹のウロボロスのようでもある。そういえば私は蟹座だ。原子番号69番は銀白色の美しい金属ツリウム。一瞬、これなら悪くないかも、と思えてしまった自分に愕然とした。

私にはちゃんと一個人としての名前がある。

いかに、スマホ使用OKの神待遇で迎えてくれようと、ご丁寧にフリーWi-Fiまで用意してくれていようと、私の耳にタグを打ち付け、家畜のごとく取扱う行為は、人格に対するれっきとした侵略である。

たとえ、私のお気に入りの雑誌「散歩の達人」を、こっそりラックに忍ばせていようとも、だ。

待合室のベンチはぎゅうぎゅう詰めだ。皆一様に下を向き、希望など何処にも存在しないことを悟る。ここからの脱出は叶わない。私は家畜の次に牢に押し込められた囚人たちに思いを馳せた。

 

噫無情(Les Misérables)

囚人番号24601、ジャン=バルジャンとジャベールのやり取りが思い出される。(私がレミゼの話題を出した際は、是非2012年の映画のシーンで思い浮かべてほしい。)

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「私はジャン=バルジャンだ」と訴える囚人に対して、「そんなことより、私はジャベールだ、24601番」と冷徹に言い放つジャベール。残念なことに、今日の私にはそんなコミュニケーションすら許されていなかった。

粛々と列に並んで、番号を呼ばれたら立ち上がり、処置を受けてまた列に戻る。中学校のジャージみたいな健診衣に身を包んだ男たちが、フィットネスクラブのハムスター諸君のように、見えないベルトコンベアの上で流されていく。

担当者の方はというと、バスの自動音声によく似たお決まりの台詞を早口でまくし立て、ロボットアームのような的確な手さばきで、囚人たちを次のラインに送っていく。

どうやら彼らジャベール側も、私たちと同じ無機質な息苦しさをひしひしと感じ取っているようだ。こうなってくると、いよいよ人間がただのパーツ、歯車、および数学的関数、あるいは記号そのものになってしまったかのような錯覚に陥る。

 

人間疎外

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社会科の教科書に載っていた「人間疎外」というワードが頭をよぎった。カール・マルクスは労働とその成果からの疎外を以ってこの言葉を操ったという。

今日の私の場合は実感あるインタラクションからの疎外、すなわちコミュニティの持つ人情とか温かみからの締め出しのことを言っているのだから、どちらかというとヘーゲルの人間疎外の考えに寄り添うものだろう。

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こんなところで匿名で駄文を垂れ流している私の言葉では説得力に欠ける内容かもしれないが、私たちにはそれぞれ、親かそれに類する人間から貰い受けた本当の名前があるのだ。

忌々しい69番のバッジを受付に返却し、ビックルの小さなボトルと、人間としての尊厳を受け取る。

私はやっと、ひんやりとした外気と共に、この身の解放感を胸いっぱいに吸い込むのだった。

 

記号化された人々

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しかしそれもごく一瞬のことだ。私はとっくに気が付いていた。我々は既に、沢山の”番号”という鎖を引きずりながら生きていたことに。

たとえば携帯番号。連絡先の交換もLINEで済ませる人が増えたようで、以前よりも身分証としての意味合いが拡大したように思う。

学籍番号や社員番号、会員番号というのも、どこかに所属する上では欠かせない。免許証の番号でその人の違反歴や紛失歴がわかる、なんて話も聞いたことがあるし、数年前には空からマイナンバーが降ってきた。

のうのうと暮らしているうちに、いつの間にか番号で管理されることに慣れてしまっていた自分が恥ずかしい。

ほかにも、私たち個人を指し示す記号という意味では、アカウント登録に使うメールアドレス、ID、SNSのハンドルネームといったものも、同様に考えて良いだろう。

ただしこれらは多くの場合、自分の手で設定することができる分だけまだマシな方だ。

私のようにWeb上に別の人格をでっち上げ、自分が傷つかない場所から好き放題に喚き散らすことだってできる。

反対に、世の中には自らデザインすることすらまかりならぬ上、生涯延々と憑きまとってくる究極の記号が存在する。

いや、ちょっと待ってくれ、それじゃあさっき、私がやっとの思いで取り返したはずの氏名ですら、ただの記号に過ぎないというのか。

 

私の本当の名前、本当の自分

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記号は我々人類が、ものごとを識別するために便宜上しつらえた目印だ。言い替えれば、人類は森羅万象のものごとに対し、勝手にラベルを貼り付けて回っているお節介集団でもある。

人間の名前であろうと例外ではない。「太郎」や「一郎」は嫡子、つまり最初に生まれた子供であるという意味の記号だ。「二郎」「三郎」に至ってはその後続で何番目、くらいの意味しか持っていない。

この順番を付ける行為が、財産である「家」を引き継ぐことが社会通念として成立している国々において、極めて重要な意味づけであったことは疑うべくもないが。

どこかに、どこかしらに、今まさに管理社会の息苦しさを感じて押しつぶされそうになっているこの「私」を指し示す、本当の名前があるのではないだろうか。

ひょっとしたら、川のせせらぎや森の木々、生い茂る葉からこぼれ落ちる陽射しのひとつひとつにも、私たち人間が知らない本当の名があるのかもしれない。ますます、先日助けた蜘蛛に名前を問うべきだった。

 

いのちの名前

本当の名前といえば、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の主人公の少女は、結局どちらの名で呼ぶのが正しいのだろうか。

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湯婆婆に名前を取られてしまうと、以前の記憶は次第に失われていく。そしてジワジワとあの奇天烈な世界に同化され、しまいにはもとの名前すら忘却の彼方へ消えて行ってしまうのだ。

いくつか他所のブログ様を覗いてみたところ、お優しい皆さんは少女のことを「千尋」と呼んであげていた。

しかしまぎれもなく、視聴者にとって彼女は「千」である時間のほうが長いのだ。

私も同じように、自分の本当の名前を忘れてしまったに違いない。私には、それを取り戻すために生きることができるだろうか。

 

「私」ってそれ、どこからどこまで?

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否、そんな物が存在しないということは、万物の霊長、科学の権化たる私たち人間が一番良く知っているはずだ。

「私」の「上半身」の一部として「腕」があり、その先端には「指」が、さらにその先端に「爪」、それを構成する「タンパク質」の「ケラチン」、18種類に及ぶ「アミノ酸」、「システイン」。分子、原子とその中の原子核、電子、中性子クオーク、まだこの先があるかどうか私は知らない。

私は確かにこのキーボードを叩く指たちを自分の一部だと認識できるが、爪から先はちょっと怪しい。昨晩、たくさん切り捨てたばかりだ。

ある者にとって私は人間であり、タンパク質の塊であり、またある人にとっては、このアイデアや考え方ですら私を構成する要素の一部だ。

パソコンのディスプレイに踊るこの文字群こそが私なのか、それともそれらをぼんやり眺めているのが私なのか、はたまた眼球内の錐体細胞と桿体細胞が受容した光を、電気信号として捉えて初めて私なのか。

私が勝手にラベリングしていた「私」の境目は存在せず、全ては分割可能であると同時に分離不能であることがわかる。

そう、本当の名など、どこを探せど見つかるはずもない。

 

名前は記号でしかない。でも「でしかない」なんてことはない。

私たちは考えずともこのことをよく理解している。自らを証明するものは、実はどこにもない。DNAの中ににすら、無い。

自分の存在が足元から崩れ去ろうとするその瞬間、人間はなにか意味にすがろうとする。私が存在する意味、私が私である意味。それを実感することができて初めて、私は自我の境界を認識することができる。

こうして逆説的に、身の周りにちりばめられた記号、すなわち名前は正当化される。ものごとに記号を振り、意味を付加する行為で以ってやっと、私たちは自分自身の存在を実感していたのだ。

我名付ける、故に我あり。デカルトは考える自分の存在を強く信じたが、私にとってその自我とは、他者を名付ける行為によってぎりぎり形成されたあいまいな何かのようにしか思えなかった。

自らの存在に対するアンチテーゼとして記号に疎外された私の精神は、しかしその記号によって存在の実感というアウフヘーベンに辿り着く。

これにより、私の存在は約束されたかに見えたが、そう世の中は易くない。

ものごとを二つに分割するという行為は、ひとときの安心と同時に争いを生じるものなのだ。

 

私と私の、正義の戦い

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そう、人間が各々に正当化していった意味と、その記号は対立していく。

私がAだと名付けたはずものとは異なる現象を他人がAと呼ぶとき、私はとても不安な気持ちになる。私の心の深いところで、記号を付与した自分自身を、真っ向から否定されたかのように感じるからだ。

本家、本革、本マグロ。私の名付けたAこそが本物であり、それを手掛けた私こそが存在する。何かを自分のものにしたい。自分だけは特別でありたい。代替不能な存在でありたい。パーツ・歯車・関数なんかにはなりたくない。

私たちが自己の存在を信じ求める限り、他者との対立は避けては通れない道なのかもしれない。そうなると他者と対立しない唯一の方法は、己の存在をあきらめること、すなわち無我の境地に達することに他ならない。

自意識の塊みたいな私には到底できそうにないことではあるが、これを達成できたなら、たぶん私の意識はこの世から解脱できるだろう。

 

愛する我が子

自らの存在に意味がないからこそ、必死にそこに意味を見出そうとする。自分の輪郭を切り取るように、他者に自分の存在を刻み付ける。名付ける。

そうなってくると、名付けられた方が幸せか否かは、名付ける者のセンス次第だ。「69」なんてのは最高にかっこいいかもしれない。

私は物理的には両親の存在によって生じた現象で間違いない、多分。しかし、彼らの意識や自我は、私という現象を名付けることで、かろうじて存在を保っていたのだ。

年末はひさびさに実家に帰ろう。

私は自分の名前に込められた意味を、もう一度聞いてみたいと思った。

 

今日の関数:

実家に帰ろう = 0.7*自分の存在 + 0.3*人間疎外