今日の生き方をまじめに考える = f(使い古したフライパン)

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あらすじ:使い捨てられたフライパン。かつて相棒のように使っていたはずなのに、今では市が指定するゴミ袋の中。まるで、ただその時が来るのをじっと待っているかよう。あれ、もしかして私ってモノを大切にできていないのでは?大切にするってどういうことか、ハルヒアインシュタインに訊いてみた。時間を越えて読みたい第四弾。/ やまびこ恵好

 

使い古された記憶

昨日、古いフライパンを捨てました。

「古いフライパン」といっても、言葉から連想されるような、レトロで愛らしい、もしくは立派で頑丈な鉄製のパンとは程遠いものです。家電量販店で大量にぶら下がっているのをよく見かけるような、地が薄くて深型の、ポップな赤色のフライパン。

そんな安っぽいありきたりな見た目でも、買った当初は軽い・深い・くっつかないの三点拍子がそろった、非の打ちどころの無い立派な道具でした。

毎日の食事で大変お世話になったのは言うまでもありませんし、表面のテフロンが剥げて、黒い塗装のさらに下、鈍色に光る合金が露出するまで使い込んだ、まぎれもない私の愛用品です。

でも昨日、金物ごみの日に捨ててきました。理由はまったく簡単で、ここまで使い倒すとさすがに不便極まりないからです。かつてはどんな焦げ付きも寄せ付けなかったボディが、今では磁石のようになんでもくっつけてしまいます。

ちなみに本来はIHにも対応していましたが、ガスの強火に晒され続けた影響で薄い底面が膨張し、クッキングヒーターに点でしか接触できいようになってからは、まったく使えなくなってしまいました。

ガラス窓の付いた、中身の見やすい専用の蓋もきっちり歪んで、もとの気密性は失なわれてしまいました。

 

本気と大切のデリケートな関係

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これらは当然、私の使い方が悪かった所為です。こういう地の薄いフライパンが、家庭用コンロの火力でも十分変形してしまうなんてことは知りませんでした。

それに男の料理は炎の料理。味覚の追求と自己陶酔の狭間で焼き面の温度管理に目覚めた私は、この繊細でいたいけな器具を中華鍋のようにグラグラと加熱し、鉄板焼き店のようにガシガシと削って使っていました。

正直、こう何年も私の無茶振りについてきてくれたのことの方が奇跡に近いと思います。

 

新しい記憶

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仕方なく半年前、新しいフライパンを購入しました。

鉄よりは伝導性が高く、アルミよりは遥かに蓄熱の良い特殊合金を使ったもので、お値段は持っていた物の倍以上。初めてそれを用いてステーキをこしらえた日のことは、今でも忘れません。

使い心地はまさに雲泥の差、月とすっぽん、有り体に言ってダンチ、まったくもって次元が違いました。

肉を展開した直後からの圧倒的な温度持久力。そしてわずかばかり失った熱を徐々に取り戻す確実な回復力。確実な火力で肉汁の吹き出す輪郭は、しっとりとしつつも美しいメイラード反応に縁取られ、しかし脂肪分の過剰な流出や余計な焦げ付きは生じません。

道具一つとっても、ここまで違うものかと戦慄しながら頬張った肉片のジューシーさを、伝え切れない私の拙い文章力が残念でなりません。

 

捨てられない記憶 1

火力・持久力・回復力を備えた、RPGで言えばチート級に頼もしい彼(?)の虜になった私でしたが、しかしながら半年間、古い方のフライパンを捨てられずにいました。勇者よ、それをすてるなんてとんでもない。頭の中で誰かが叫ぶのです。

どう合理的に判断したところで、今後活躍の機会は皆無であろうと判断できるにも関わらず、擦り減ってまばらになった塗装の境目に、私は自らの料理上達の日々、レベルアップの軌跡、すなわち私の人生を見たのです。

長く使った物には魂が宿るなんて話がありますが、コンロに打ち付けられてボコボコになった底面ですら、私には自分の一部に思えたのでした。

 

捨てられない記憶 2

ふと身のまわりをよく見てみると、私はこれとよく似た、捨てられなくなってしまった様々なモノたちと共に暮らしていました。

錆びついて切れなくなった安価な包丁。トレンドの過ぎ去った、もしくはサイズの合わなくなってしまった洋服たち。高校生の頃、元カノにクリスマスプレゼントで貰った手編みのマフラー。

今後何かの拍子に見かけることがあったとしても、まず使用することはないだろう”ゴミ”たちが、狭苦しいワンルームの隅からひょっこり姿を現したのです。

 

思い出すものと忘れられないもの

頭の中をBUMP OF CHICKENの『分別奮闘記』が流れ始めます。ケルト音楽を思わせるイントロに続いて、捨てられなくなったゴミたちへの鎮魂歌のような、しかし朗らかな復活の呪文を紡いだ歌詞が踊ります。

弾んだ明るいリズムとは対照的にどこかもの寂しげな言葉たち。新しいフライパンを手に入れた歓喜に身を震わせながらも、捨てられるべきものたちへの哀愁を噛み締める、今の私のための音楽。

久しぶりに聴きたくなって、すっかり埃をかぶった本棚の上のほうからCDを引っ張り出そうと探っていると、横にあった別のものがパサリと床に落ちて来ました。どうやら書籍のようです。

文庫本サイズで、表紙には奇怪なポーズをとった美少女が描かれている、気持ち多めに挿絵の入った小説。ライトノベル。これも、私に忘れられていたモノたちの一つでした。

見上げると懐かしいタイトルが並んでいます。『しにがみのバラッド。』、『人類は衰退しました』、『キノの旅』。年代がばれるラインナップですが、これでも半分は実家に置いてあります。

 

人類は衰退しました1 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました1 (ガガガ文庫)

 

 

 

中でも目に留まったのはラノベ界の金字塔、著:谷川流、イラスト:いとうのいぢの『涼宮ハルヒの憂鬱』。こればっかりは最近、私が贔屓にしているスマホゲーム『シャドウバース』でコラボイベントが始まったばかりということもあり、忘れようがありません。

 

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

 

 

いつの間にか聴くはずだったバンプのCDを脇に置いて、少し黄色くなったページを一枚ずつめくっていくうち、私はこの文庫本の群れに熱中していた幼い日のことを思い出していました。

 

幼い頃の記憶

中学の教室、朝10分ばかりの読書時間では飽き足らず、休み時間も部活の後も、指の跡が付くくらいライトノベルにのめりこんだ日々。

あのときしっかり勉強しておけばと感じる自分のおっさんらしい後悔に、鼻の奥がむず痒くなってきました。しかし当時の私にとってそれは、地方の息苦しい男子校生活から解き放ってくれる、何にも代え難い有意義な時間だったのだと思います。

冷静にタイトルを見比べてみると、私はどうやら物語の時空や時間軸が比較的自由に描かれている作品が好きだったようです。

京都アニメーションの手で劇場版として製作された『涼宮ハルヒの消失』は、そんな空間も時間も超越した物語でした。

 

確実なようで曖昧な記憶

私たちがいつも当たり前だと思って過ごしている日々、人によっては不満や退屈にあふれた日常を見つめ直したくなる、計算と情熱にあふれたお話。

忘れずに覚えておくことの大切さ、忘れられてしまったものごとの大切さ、そしてそれらを丁寧に思い出すことの大切さが描かれています。

古いフライパンを捨て去り、例えその存在すら忘れてしまったとしても、私が今日華麗に鍋を振ることができるのは、あの軽くて深い真っ赤な相棒と一緒に、少しずつ経験値をためていった事実の結晶なのです。

大好きだった人と別れなければならない痛み、それを次こそは後悔しなくて済むよう忘れずにいることと同様に、眼前に広がる今日を乗り越えていく途中途中で、ふと思い出す懐かしいメロディーもまた、尊いと思えること。

いまはどんなに価値が無いと思っているものでも、明日には心から大切にできるかもしれません。今日、後生大事に抱えているものごとでも、来年には忘れてしまっているかもしれません。

 

記憶と価値の相対性

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私たちは常に目の前の事象を過去に紐づけ、価値を比較して次の未来を選択しながら生活しています。

言い替えれば、過去の価値は現在の価値と相対化され、ある時は私たちの意識の表面にぼんやりと現れ、またある時はとことん無価値に、忘却の彼方に葬り去られていきます。

しかしアインシュタイン特殊相対性理論によれば、過去・現在・未来という考え方は幻想に過ぎず、現在という瞬間にすら絶対的な意味はないそうです。曰く、時間は流れるものではなく、そこに在るものだとか。

事象を観測する視点が変われば時間の相対性も変化し、私からは二つ同時に起こったように見える物事も、他の人から見ればタイミングを前後して起こっているように見えることがある。それはちょうど、記憶やそれに紐づく価値の相対性とも深い関係がありそうです。

具体的に言えば、ある私にとって、あの古いフライパンはもうゴミに出して良いと思える程度の価値しかないのに対して、この文章をしたためている別の私にとっては、少し勿体なかったような気もする、ということです。

異なる観測点から見たフライパンの価値、それに紐づいた思い出・記憶の価値は、はっきりと異なっています。

 

記憶を大切にするという生き方

いまひとつ残念でならないのは、私のこの表層に浮上している意識単体では、どちらも同じ「私」でありながら、異なる「二人」の感覚を同時に(あるいは別々に)認識することができないということです。

フライパンを実際に捨ててしまった時空間の私=今ここにいる私には、記憶の向こうに確かに存在する”捨てられない私”の気持ちは、もはや認識不可能だからです。

記憶や思い出を大切にするということは、こういった、時間や空間を越えた現象や価値を大切にする、責任を持つということだと思います。

とはいえ、今日を精一杯生きる私たち一般人にとって、時空間の異なる無数の自分からの視線を意識しながら生活することは至難の業だと言えるでしょう。

記憶しやすいよう、あえて昨日・今日・明日の自分という表現を用いて、日々の意思決定に役立つフレームワーク、あるいは記憶を大切に生きるための行動の指針を言葉に落とし込むとするなら、次のように表現できるのではないでしょうか。

一、明日の自分が誇れることをせよ。
一、今日の自分が満足することをせよ。
一、昨日の自分が夢描いていたことをせよ。

一言にまとめると「後悔しない生き方をせよ」という事でしかないかもしれませんが、思い出の中の自分が持っている意思を尊重したり、現在の自分を記憶の一部として捉えたりという超時空的観点までをも説明している分、いくらか上等なものに仕上がっているのではないでしょうか。

いつ・どこの・どんな自分も同等に自分として大切にできるかどうか。そしてそういう生き方が振る舞いとして実行できているかどうか。

上のフレームワークに照らして、今日は『涼宮ハルヒの消失』を観ながら、もう一度自分自身を見つめ直してみようと思いました。

 

今日の関数:

今日の生き方をまじめに考える
= 0.4*センチメンタリズム + 0.6*特殊相対性理論