合言葉は勇気 = f(12月の寒い朝)
あらすじ:理不尽に立ち向かうこと、それが尊いのは疑いようがない。しかし私たちは自分が物語の主人公ではないと知っている。主人公ではない私たちが、心から勇気を振り絞って立ち上がるためには、いったい何が必要なのか。そもそも勇気って何なのか。凡庸なやまびこが必死に紡いでいく第七弾。/ やまびこ恵好
※複数のコンテンツについて、若干のネタバレを含みます。
寒い世界
朝はめっきり冷え込み、起きるのが億劫になってきた12月。
仕事に行かねばならないと思う自分と、別に行かねばならない理由などないと主張する自分と、そもそも働く意味とは?と問い始めた自分。彼らを喧嘩させぬよう無理やり意識の奥に押し込め、もう一度深く布団をかぶる。
つかの間の安息、しかしそれもたった5分ぽっちの逃避に過ぎない。一度覚醒したこの意識と肉体は、確かな時間軸の中をするすると移動して、いずれは家を出なければならない刻限に到達してしまうだろう。
仕方なく残酷極まりない冷気に身を晒し、おぼつかない足取りで洗面所を目指す。それにしても寒い。先日見かけた、布団の中と外をイラストで表したツイートを思い出した。
あるいは、打首獄門同好会のあの伝説のナンバーか。
優しくない世界
寒さに限らず、私たちを取り巻く世界は優しくない。温もりにあふれた布団の中ですら、決して優しいということはない。安心は結局、自分と他者との関係性の中にしかなく、しかしその関係性の中で、私たちは同じくらいの恐怖に脅かされている。
人が他者に承認されていたい、愛されていたいと願うのは、この恐怖を少しでも和らげるために違いない。
支度を済ませ、そそくさと家を出る。最寄りの駅では、生きるために生きるという行為に意義を見出せなくなった人々が、生きる意味を求めてエスカレーターに行列していた。
そして稀に、そんなものはどこにもないと悟ったひとりが、ホームからぽとりと零れ落ちていく日もある。
もとより決められた意味などない。生きる意味がないからといって、生きている意味がないかといえばそうでもないかもしれないが。
しかし探しに行くと確かにない。意味は自分の内から見出す他ないと知ったとき、私は自己の矮小さを自覚する。そしてまた、あの宇宙的恐怖が襲ってくるのだ。
勇気の話
私は以前、理不尽な世界に抗うことが命そのものであると書いたような気がする。絶望的な状況にあっても、打開のために手段を尽くすことが生きる目的かつ使命であると。
しかし私に何ができるかを考える事は、しばらく蔑ろにしていた。
単純に怖かったのだと思う。真面目に議論したとして、再び自分の空虚さを目の当たりにすることになるのが、私はたまらなく恐ろしかった。
ただ逃げてばかりではいずれこの感情に追いつかれてしまう。少しでもヒントを得るため10年越しに手に取ったのは、理不尽な運命に抗う少年・ワタルの物語『ブレイブ・ストーリー』だ。
宮部みゆきファンの皆さんにとっては、これと『レベル7』しか読んだことがない私など赤子も同然であろうが、幼い私の人生観を確実に左右した作品の一つだと言える。
GONZOのメディア化戦略の負のイメージで記憶している方も少なくないかもしれないが、原作は児童文学としても大ヒットを飛ばした名作だ。昨今の異世界転生系の作家陣を子供のうちから育て上げた物語であると言っても過言ではない。
本筋は是非読者諸君の目で確かめてほしいが、ここには自分の感情に向き合うためのエッセンスがちりばめられている。
得難いもの
(C)2006 フジテレビジョン/GONZO/ワーナーエンターテイメントジャパン/電通/スカパー!WT
主人公のワタルは、自分の運命を変えるために異世界へと旅に出る。精霊の宿る宝玉を集め、女神に願いをかなえてもらうための旅だ。
次々と降り注ぐ過酷な事件に、勇気を持って立ち向かうワタル。その様子が、彼の現実世界の様相の鏡写しになっている点がとてもアイロニックでゾッとする。
道中では、冒険に挫折し、世の中を斜めに眺めることで自我を保っているかつての旅人たちにも出会う。これはまさに今の私そのものを指しているのだと感じた。
恐怖の力は強く、そしてねちっこい。無意味なことなんかやめてしまえと、心の内から囁き続ける。人が己の無力を悟りそれに甘んじた瞬間、せっかく獲得した勇気は、体の穴という穴から漏れ出してしまうものなのだ。
勇気を司る宝玉の精霊は、ワタルにこう告げる、
「私を得る扉は少なく、失う窓は多い。」
宇宙的恐怖に立ち向かう心、すなわち勇気を獲得すること、そしてそれを持ち続けることは何よりも難しいことなのだ。
そしてよしんば勇気を抱き世界に立ち向かうことができたとしても、勇気は信念を生み、信念は偏見を生み、偏見は憎しみを生む。
私もワタルのように、勇気と共に自らの内の憎しみですら己の一部であると認めることができるだろうか。
心の闇と向き合う
自らの心の闇と向き合いそれを克服する描写は、物語の中ではむしろありきたりな方かもしれない。NARUTOもそうだし、ゆゆゆもそうだった。
私の記憶に鮮明なのは大久保篤の漫画、『ソウルイーター』かもしれない。これも自分の心、魂と向き合う物語だった。
「健全なる魂は、健全なる精神と、健全なる肉体に宿る。」作中で繰り返し登場する標語のようなものだ。
極めて簡潔に、しかしとても困難なことを言い表している。私がこの一年間、これらすべてを健やかに保てていた日は、一体いくつあったのだろうか。
全体的にダークな、どこかお気楽な雰囲気のこの物語の中では、負の感情「狂気」と、その権化たる敵・鬼神が人々の心を惑わせていた。武器に変身する少年・ソウルとそれを操る武器職人のマカは、魂の力でこれに立ち向かう。
この「狂気」という言葉は、恐怖だけでなく、妬みや嫉み、理解不能なモノへの蔑み、憎しみや悲しみといった負の感情の爆発のことを指していて、個人的に心の闇を表す大変便利な表現だと思った。
狂気とはいつも誰の心にも巣食っているものだ。鬼神も言う、
「狂気は魔じゃない、誰でも持ってる。」
差別は何度是正しようとしてもなくならないし、戦争はいつまでたっても終わらない。何度倒しても、封印しても、人々の心に狂気が現れる度に、狂気の象徴:鬼神は復活する。
2004 大久保篤/スクエアエニックス/テレビ東京/電通/ボンズ
ボンズ制作のアニメ版『ソウルイーター』では、漫画原作とは異なるラストを迎えることになる。しかしこの狂気の根源的不滅性についての描写が秀逸で、原作に勝るとも劣らない理解が垣間見える。
このアニメが、原作完結前のアニオリ展開の作品でありながら高い評価を得ているのは、原作の世界観への忠実なリスペクトに理由があるだろう。
※ここから下はアニメ版『ソウルイーター』の最終話ネタバレを含みます。
別に大した内容でもないので、お時間のある方はアニメ本編をご覧になってからお読みいただくことをお勧めいたします。
恐怖に立ち向かう主人公
私たちが恐怖を殺す方法は確かにある。恐怖とは、宇宙のように認識不能で理解の及ばない事象から、私たちの精神を守るための機制だ。
したがって森羅万象すべてを記憶し、理解することができれば、もしかしたら恐怖を克服することができるかもしれない。
ただし恐怖を克服しようと努力に努力を重ね、一度知識の力でねじ伏せたとしても、人が関わりの中で生きる不確定であやふやな世界では、やはり新たな未知が次々と生まれてくる。
カントの言う通り、私たちが物事を理解した瞬間、それらは理解したものとその外側に分類され、新たな未知を生み出すアンチノミーなのだ。
故に恐怖、狂気はなくならない。私の生きるこの世界ですらそれは疑いようのないことだ。そしてこの感情に惑い、自らの心の赴くままに振る舞い生きることも可能ではある。
いつも心の内で鬼神が囁く。
「もういいんだ、楽になれ、狂気に身を任せれば、お前も恐怖から解放される。」
むしろそうせざるを得ないような気さえしてくる。なにせ、私たちは一般人。主役ではないのだから。
物語の主人公たちは違う。彼らには特別な力、恐怖に立ち向かう力、勇気がある。自分の闇に立ち向かう勇気が、理不尽を越えて行ける勇気が。そして勇気を携えて、彼らは何度でも狂気に打ち勝つ。
私たちにはそれが無い。だから彼らの齎す画面の向こうの感動に喝采する。ただ眺める。そして少しのため息と感動の余韻の中で、静かに本を閉じるのだ。
ソウルイーターの世界の主人公であるマカも、一度は心の闇に飲み込まれそうになりながら、目の前に立ちふさがる狂気=鬼神を、最後は「勇気を乗せた正拳突き」でいともあっさり倒してしまった。
ああ、またこのパターンか。
物語は痛快だ。ワタルだってナルトだって、主人公だからうまくやってのけた。今回もそうだ。世界を脅かす巨大な敵を、何の変哲もないただのパンチで打ち破ってしまえる。彼女には勇気があるから。
しかし拳を握り締めたマカは言う。
「そうだよ、特別じゃない。だから、誰でも持ってる」
合言葉は勇気!
2004 大久保篤/スクエアエニックス/テレビ東京/電通/ボンズ
人は簡単に恐怖を抱くが、一方で簡単なことで勇気をもらえる。狂気が誰の心にもあるように、勇気も私のこの心の中にある。
理不尽な世界、宇宙的恐怖に遭遇したとき、私たちの思考は概ね止まる。これに立ち向かうためには、きっととても大きな力が必要なのだと思ってしまいがちだが、どうやらそれは違うらしい。
ただ自分の中にある勇気を取り出して、拳に乗せてぶつけるだけでよいのだ。
狂気に負けそうになったとき、まず私にできることは勇気を思い出すこと。物語の主人公たちは、この切り返しがとっても上手な人たちだったのだ。
合言葉は勇気。奇しくも、アニメ版ソウルイーター最終話のタイトルは、三谷幸喜脚本のTVドラマにつながっていた。
きっと何者にもなれない私たちの生存戦略。降りかかる理不尽に対してどう勇気を持って立ち向かっていくのかをヒントをもらえる作品だ。
高いよ!という方はこちらで↓
さて、私たちが理不尽に思考を奪われたとき、まずは勇気を思い出すべきだということは分かった。
ではどうすれば、主人公たちのように素早い切り替えが可能なのか。それについては、再度別の機会に考えてみようと思う。
今日の関数:
合言葉は勇気
= 0.5*特別じゃない勇気 + 0.5*特別じゃない狂気
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理想はいつも選択肢の外にある = f(最善を尽くす)
あらすじ:自分の口をついて出た最善という言葉。嫌いじゃないけど、がむしゃらに頑張るのと何が違うんだっけ。ベストを尽くしていればそれでいいんだっけ。いつも意識していたようで、やっぱりあんまり考えたことがないような気もする。せっかくなので、理想と最善のギクシャクした関係について改めて考えてみる。今日はいつもよりちょっと短めな第六弾。 / やまびこ恵好
要するに、がんばりますってこと?
「やれるだけ最善をやってみます。」
ふと自分の口からこぼれた一言に、引っ掛かりというか、違和感を覚えた。わかっている、こういうところがめんどくさいヤツなのだ。
最善をとる。ベストを尽くす。
日本に住む私たちは、この表現が結構好きだ。スポーツなど競技の世界では、特によく使われているように感じる。
やることはやった。負けてしまったけど頑張ったからいいじゃないか。結果は出なかったけど3年間楽しかった。縁起的、共同体的、プロセス志向の為せる業だろう。
初めに断っておくと、私はこの言葉が嫌いだとか、不毛だとか、そういう頭の悪い議論がしたいわけではない。むしろ理不尽なこの世を生き抜く上では欠かせない心構えだと思っている。
しかしこのところ、以前と比べて自分自身の言葉たちと向き合う機会が増えたので、今日はこの”最善”について考えてみようという次第だ。
選択肢の檻
日々の業務をこなしていく上で、私たちは常に選択や決断を繰り返している。当然、目の前の事象に対しては所与の選択肢の中から最善の手を尽くす他ないのであるが、自分がそれだけで満足していないかどうか、いつも考えておきたい。
選択とは私たちに開かれた権利のようでいて、人間が全知全能でないことの証明でもある。10の選択肢を持つ者も、100の選択肢を持つ者も、縛られている規模が異なるだけで、常にその中での最善を採ることを迫られている。
理想の状態
少し距離を置いて考えてみれば、理想の状態は常に選択肢の外に存在することが分かる。
私たちはいつもそうだ。ないものねだりで文明を築いてきた。「これさえあれば」、「もしこうあったなら」という人々の願望は、科学技術の進歩と共に、その意識の枠組みすら超えて飛躍してきた。
科学技術だけではない。伝統的な工芸や芸能、伝統も同じだ。彼らは数世紀もの間変わらずに存在し続けてきたようで実は違う。毎年、毎月、毎週、毎日、毎時、毎分、毎秒の仮説検証の連続を乗り越えて、自らの理想状態を追究し続けてきたからこそ後世に伝わり、今この世に残っている。
企業に勤める私たちについても、技術や伝統と同様、放っておけば常に理想状態から遠ざかっていく存在だ。そして理想から遠のいた状態で繰り返される業務は、それらが構成する事業と、その集合である会社全体のの競争力を失わせていく。
市場競争力を失った企業がどうなるかについては、また別の議論があるにしてもだ。業務に限らず、目先の最善を拾うことばかりに躍起になって、だんだんと自分の首を絞めるようなことだけは、あってはならないように思う。
理想を採ることはできないにしても
今この時、どうすれば101個目の「より理想に近い選択」が採れるようになるのかを考え、そこから仮説を立て、検証していく。それを繰り返して、一歩ずつ理想に近づいていく。
この場合、これでは永遠に理想に届くことがないじゃないかという反論は受け付けるべくもない。なぜなら辿り着いたそこは、相対的にはもう既に、理想の場所では無くなっているのだから。
しかしそれでいいじゃないか。山頂を見上げて登っているうちは、他の山の存在を知ることはできない。私たちは何かのてっぺんに立って初めて、次に目指すべき理想が遠くにそびえる様を目の当たりにできるのだ。
あえて言うなれば、常に最善ではなく理想を意識して行動することが、「最善の選択肢」なのかもしれない。
こうなってくると理想とは何かについて考えてみたいとも思う。このまま続けると過去最大級の長文になる予感がするので、また今度、小分けにして投稿させていただこうと思う。
良ければ読者のあなたのご意見もお聞かせ願いたい。
今日の関数:
理想はいつも選択肢の外にある
= 0.5*最善の選択肢 + 0.5*理想の自分
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あらすじ:これだけ世の中がスマホ化しても、仕事中はパソコンという人は少なくない。デバイスが複数あるってだけで困るのに、検索を利用する場面が多い人はマウス→キーボード→マウスの持ち替えが面倒になってきたりする。今回は超スーパーものぐさ太郎の筆者がたどり着いた、Chromeで快適なブラウジングを実現する方法をご紹介。/ やまびこ恵好
たまにはライフハック(ワークハック??)みたいな記事もいいかなと思ったので、試しにやってみます。
はい、私はとにかく面倒くさがりなんです。
ハンバーグを、洗い物をケチってフライパンでこねるくらい、ものぐさなんです。まいにち、仕事や家事の一分一秒一工程をどこまで削れるかが勝負だったりします。
あなたの身の周りにもこういう人、結構いると思います。ここまでくると人間関係をギスギスさせがちな性質ではありますが、ことがITになった途端、役立つ場面もしばしばありまして。
さて、自分語りはこの辺にして本題に入りましょう。
マウス要らずの快適Chromeライフを支えてくれているのは、ズバリ「Vimium」。Chromeウェブストアで公開されている無料の拡張機能です。
「えっ、なに拡張機能なんてアヤシイ...。」というあなたにこそ、是非このツールを試して頂きたいと思います。
普段Google Chromeをお使いの方なら5分で導入できるツールです。万が一お気に召さなかった場合に備えて、超簡単な削除方法についても文末にご用意しておきました。
それでは拙い文章ですが、宜しくお願い致します。
え、マウスが要らないってどういうこと?
私は以前、楽天市場のECショップ運営に携わったことがあるのですが、楽天RMSってとにかくマウス頼みなんです。
ちょっとした操作ならポチポチするのも大したことはないのですが、例えば顧客対応で一日に何百件と同じクリック操作を繰り返す業務ともなると、それだけで腱鞘炎になりかけたり、とにかく大変でした。
ブラウザ操作でマウスが要らなくなるということは、主にブラウザを使用して仕事をする人にとって、時間の効率化だけでなく、精神衛生面、身体の健康面で大きな効果が期待できます。
正直、当時このツールを知っていれば...と後悔する自分がいます。一人でも同じような悩みを抱えた人に楽になってもらえたらと思い、筆を執った次第です。
画像で分かる超簡単な操作説明
vimiumは、「vimっぽい」という意味の造語で、エンジニア様方がプログラムを書くときに使用する、vimというソフトのように、キーボードだけでChromeを操作できることから名付けられています。
簡単に言うと、「マウスクリックの役割をキーボードにやらせる」ことができるようになるわけです。
気になる使い方はとってもシンプルかつエレガント。
①起動後、画面内のリンクにショートカットキーが振り分けられます。
②キーを入力すると(※テレ東のコンテストを見たいので「L」)。
③リンクが押されて、目的のページが表示されます。
ね、簡単でしょ。
で、なんの意味があるの?
マウスで押した方が早くね?と思われた方も多いのではないでしょうか。お気持ちは良く分かります。もちろん使い始めは誰でもそうです。
しかし、「マウスで右クリックしてテキストをコピー」するのと、「Ctrl+C」を使うのと、どちらが簡単かつ素早いかを想像して頂けると、少しは違いが分かりやすいかもしれません。
例えば、noteのサイト内検索。
マウスを用いた操作では、検索窓のテキストボックスをクリックして、キーボードに持ち替えて、文字を入力してエンター、それからマウスに持ち替えて、スクロールして...と、手元は大忙しです。
この持ち替えの煩わしさも、vimiumで解消できます。下の画面なら、「DA」と入力するだけで検索窓の入力画面に入ることができるわけです。
インターフェースの最高峰であるマウス操作は確かに直感的で、誰にでも優しく作られています。それに一つ一つの動作で見ると、実際大した効率化にはならないかもしれません。
でも、パソコンで長時間ブラウザを触る職業の人にとって、このコンマ数秒の差、ちょっとの煩わしさの差は、長いスパンで見ると数時間、数十時間と巨大なものになります。
マウスフリーの世界を一度体験してしまった私にしてみれば、もうチマチマ画面をクリックしながら操作していくのは面倒以外の何物でもありません。
とは言っても、物事は習うより慣れよと言います。最後のほうにキッチリ消し方もレクチャー致しますので、試しに一度、導入してみましょう。
5分で出来る導入方法
※筆者のChromeはダークテーマというデザインなので、あなたの画面で言うところの白い部分が黒く表示されている可能性があります。あらかじめご了承ください。
①Google Chromeを開きます。
②Chromeの設定メニューを開きます。
画面右上の×ボタン(閉じる)のすぐ下、縦向きに三つの点が並んだボタン(Google Chromeの設定)をクリック。
③拡張機能を開きます。
下の画像の赤線を引いた「拡張機能(E)」をクリックします。
④メニューを開きます。
拡張機能の管理画面が開くので、画面左上の「三」マークをクリック。
⑤ウェブストアを開く。
一番下の「ウェブストアを開きます」をクリック。
⑥Chromeウェブストアに行けます。
⑦Vimiumを検索します。
検索窓に「vimium」と入力して検索。
⑧Vimiumのインストール ※無料です
このマークのvimiumが出てきたら、青い「Chromeに追加する」ボタンをクリック。
⑨権限の承認
権限確認のアラートが出るので、内容を確認して「拡張機能を追加」をクリック。
⑩インストールの確認
Chromeの画面右上にvimiumの「V」マークが出現したら、導入完了です。
※ダウンロード直後にこのマークを押しても起動しません。仕組上、ChromeウェブストアとGoogleウェブアプリ(スプレッドシートやGmail)の画面では拡張機能を使用できない仕様になっています。ご注意ください。
どんなもんか使ってみよう
インストールができたら実際に使ってみましょう。そうですね、noteの適当なページを開いてみてください。
デフォルトの設定では「f」キーで、画面上のクリックできる箇所すべてに、下の画像のようなショートカットを振ってくれるはずです。
たまたま私のフォローしているnoterさんの記事がおすすめに出ているので、タイトルの文字リンクの上に出ている「AM」を入力すれば開くことができます。
この操作に慣れると、いつも使っているページなら画面がロードされるよりも早く、リンクをクリックすることだってできるようになります。この記事も、実は殆どマウスフリーで執筆しています。
どうでしょう。少しでも快適さを実感して頂けたでしょうか?
一緒に覚えたいChromeショートカット
番外編です。読み飛ばして頂いても構いません。
本当の意味で高速ブラウジングを達成するために欠かせないのが、Chrome本体のショートカットです。
vimiumではタブやウインドウなど、画面外の操作もサポートされていますが、本来のショートカットを使った方が競合も少なく安全です。
他にもいろいろありますが、最低限使えそうなものを集めました。参考にしていただければ嬉しいです。
・タブの切り替え「Ctrl + pgUp」or 「Ctrl +PgDn」
・新しいタブを開く「Ctrl + T」
・閉じたタブを開く「Ctrl + Shift + T」
・現在のタブを閉じる「Ctrl + W」
・すべてのタブを閉じる「Ctrl + Shift +W」
・URL欄にジャンプ「Ctrl + L」
10秒で出来る削除方法
よくわからん、うまく使えなかったという方は、残念ですがこちらを見ながら削除して下さい。数秒で終わります。
①Vimiumのアイコンを右クリックします。
②「Chromeから削除」をクリックします。
③削除しますか?アラートが出るので、「削除」をクリック。
④これで完全に削除されました。
おわりに
Vimium便利だな、使ってみようかなと思っていただけたら幸いです。
もし、これを読んで下さっているあなた自身が使わないとしても、身近にマウスのポチポチを頑張っている健気な友人や同僚を見かけたら、是非紹介してあげて下さい。約束ですよ。
実はVimiumにはこの他にも沢山の機能があり、「?」キーで全てのショートカットが確認できます。
私は誤入力や他のツールとの競合が嫌で、クリックのみに絞るカスタマイズをして使用しています。要望があったので公開しますが、下手に触ると危ないので、有料コンテンツとさせて頂きます。ご了承下さい。
今後も便利なツール情報が手に入り次第、noteにしてみようと思います。
ここまでお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
ご読了ありがとうございました。
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イノベーションの発見 = f(割れたクラゲの皿)
あらすじ:お皿が割れるってことは、イノベーションなんだよ!どんなに声高に叫んだところで、こんな戯言に耳を貸す者はいないだろう。あんなに大好きだったお皿が割れるべくして割れたなんて、どうあっても信じられない私は、この世を支配しているという因果律について思いを巡らせるのだった。とことんモノを大事にできない私のコラム第五弾。 / やまびこ恵好
家に帰ると、流しでお皿が割れていた。それも二枚、パステルなクラゲたちが描かれている波佐見焼の逸品だ。
2年くらい前、どこかの水族館で迷いに迷った挙句、異なる絵柄のものを購入して帰った思い出の品だったが、片方は縁が僅かに欠け、もう一枚は1:9くらいの割合でにきれいに分割されていた。
現場検証と密室
賃貸のワンルーム、ぎゅぎゅっと狭いキッチンの猫の額ほどしかない流しには、その時いくらか洗い物が放置されていたはずだ。しかしこの皿については確かに洗った記憶がある。流しの上には水切りのステンレスラックがあって、いつも洗い終わった食器はそこに整列させれられることになっているから、この皿だってそこにいたに違いない。
家のカギはきちんと掛かっていたはずだし、まめに皿を洗ってくれるような同居人もいない。となるとこれは完全なる密室殺人(皿)だ。地震かポルターガイストか、はたまた借り暮らしの小人の仕業かは分からないが、それくらい意味不明でありえない現象だと言える。
ゲン太君程度の推理力しかない私にとって、この事件は迷宮入り確実かに思われた。いやちょっと待て、世界に予想だにしないことは数多くあっても、ありえないなんてことはありえない。
姿の見えない犯人と常識的思考
世界は万物普遍の物理法則に支配されている。みみずだっておけらだってみつばちだってそうだ。皿が欠ける・割れるということは、その部分に何かしらの物理的負荷がかかったということに他ならない。このあたりから一つずつ整理していけば、犯人のしっぽが掴めるかもしれないじゃないか。
ほかの食器にダメージがないところを見ると、私がラックに不安定な状態で皿を放置してしまっていて、二枚の皿は何かの拍子にラックからするりと流れ落ち、互いにぶつかり合って割れてしまったに違いない。そうでなくては説明がつかない、常識的には。
しかしどうだろう、死亡推定時刻にオフィスでのほほんとパソコンに向かっていた私には不可知な領域で何かが起こって、帰宅した際には「皿が割れている」という状態だけが観測できた。常識の範疇だけでこの事件の犯人を推定し、因果関係を特定するのは必ずしも論理的ではない。
なぜなら、”何者かが私の家の錠を破って侵入し、皿をあくまでごく自然に割った後、なにもせず施錠をして帰っていった”という可能性が、ゼロに限りなく近いとしても確かに存在するからだ。
この場合、皿が割れた原因は「家のカギが二重ではなかったから」かもしれないし、「悪意を持った何者かに私の不在を知られてしまったから」とも限らないし、「誰かに恨みを買うようなことをしてしまったから」と言うこともできる。物事の原因はしばしば特定し難いものなのだ。
犯人探しの旅と普遍の因果律
哲学者のヒュームは、異なる二つの事象の間には本来因果関係はなく、原因や結果というものは、人間が精神世界の中で勝手に結び付けた概念に過ぎないとまで言い切ったと聞く。
私たちの身の周りではこういった因果関係の推定が横行しているが、果たして物事に因果関係なるものは存在するのだろうか。もしするのだとして、私の大事な皿を割ったのは、一体どこのどいつだというのか。
仮に犯人が家宅侵入罪を犯した何者かであるとした場合、金田一少年のように自信たっぷりに彼を指さすことが望まれている場面であるなら、私はこのあと彼の足取りを追いに出かけたことだろう。
膨張する犯人とアンチノミー
よしんば彼を捕らえたとして、本当に犯人だと言い得るのだろうか。あるいは、どこかで彼に不快な思いをさせてしまったかもしれない私自身が犯人であるとも言えるし、そういう行いをする自分を作り上げた周辺の環境こそ真の犯人であるとも言えるのだ。
その元凶は環境を作った歴史、歴史を作った人類、人類を作った母なる大地へと繋がる。因果律に縛られたままの思考は、どこまでもどこまでも真犯人を追い続け、宇宙の彼方へ発散してしまった。
カントは、人間には本来、このような事象と事象との因果関係を推定する理性と呼ばれるシステムが認識の機能の一部として備わっていると考えた。
しかし一方で彼は、原因にはその原因が、その原因には...と因果律そのものを論証しようと試みる際、人間の認識の範囲では大宇宙の外側に展開する「無」や、「無限」に広がる宇宙自体を正しく知覚できないことから、こういった課題は人間の理性では扱うべきではないアンチノミーであると言う。
確かに二律背反だ、私のお気に入りの皿を割った原因が「ある」にしても「ない」にしても、それらはどちらも大宇宙の法則と偶然性の中に吸収されてしまうのだから。
落ち込んでいると作業が捗る
全銀河を巻き込む犯人探しにほとほと疲れてしまった私は、しょうがないので皿とその破片を救出した後、とりあえず流しにたまった洗い物を先に片づけることにした。
どうということはない日々のルーティーンの一部。むしろ、こういう少し落ち込んでいるときの方が単純作業は捗るように思える。きっと作業自体の意味とか自分のすべきこととか、そういう余計なことを考えずに済むからだろう。
検死と価値の本質
濡れた手を薄いブルーのタオルで拭いて、もはやガラクタと化してしまったかつてのお皿たちをテーブルに並べて眺めてみる。
近くで見ても遠くで見ても、うん、確かに割れている。改めて、失われてしまったものの大きさが背中にのしかかってきた。あれだけ毎日使ってきた皿だ。あの捨ててしまった、古いフライパンの次に大事なキッチンのお供だったのに。
欠けた方の皿の輪郭を、指でゆっくりとなぞる。指をかろうじてケガしない程度には鋭く、はっきりとした窪みだ。こっちはまだいい、まだ丸いからいい。もう片方はどうか、別れてしまった二つの破片を持ち上げてもとの形にくっつけてみると、小さいほうの破片はほとんどすっぽり隙間に収まることが分かった。
一瞬なにやら嬉しいような気がしたが、これは大した発見ではない。それでお皿が元のままにきれいに戻るわけではないのだ。しかし私はあることに気が付いた。私の内部でとぐろを巻いているこのもやもやの正体は、「お皿が割れてしまったことへの悲しみ」ではなく「もうあのお皿が使えないことへの悲しみ」だったのだ。
代用品とマスプロダクションの罠
そうか、買った水族館の名前すら覚えていないような状態だったが、代わりのものを探せばよいのだ。なあに、私たちにはGoogleという強い味方がついている。どれだけ長い時間が掛かったとしても、私は再びあの皿を手に入れて見せる。
「お皿 クラゲ」と打ち込みエンターキーを押下すると、目的のものはかなりあっさりと見つかってしまった。しかもなんということだ、楽天市場でふつうに売っていた。
さて、いよいよ今度ばかりは安堵では済まなかった。私が大事に、と言う割には雑に、しかし確かな愛情を注いで使っていたあの皿は特別でもなんでもない、世の中にごくありふれた存在だったのだ。
本来、私はこのことをよく知っていたはずだった。社会的分業化が進み、物量を担保するため生産と消費の距離感が乖離していく過程で、私たちの手が届くものはあまねくありふれた大量生産品に過ぎないということを。
知識の上では知っていたが、それを実感するのはとても久々の出来事だった。目の前にある薄くて硬い土くれが、本当にただのガラクタになってしまったように思えた。さっきまで煌めく思い出の破片だったものが、ものの一瞬で不燃ゴミになった瞬間だ。
シュレーディンガーの皿
いや、本当は割れてしまったその時から、これはゴミだったはずだ。でも会社であくせく働いていた私にとってはまだ、確かに愛用している皿だった。それが、私が家の鍵を開け、中を覗いた瞬間にガラクタである状態が確定してしまった。言うなればこれは、「シュレーディンガーの皿」だったのだ。
量子力学の世界では、観測者の有無によって粒子の様相が変化することがあるらしい。もし私が今日、家に帰らず友人と朝まで飲み明かし、そのまま翌日も出勤していたなら、このかわいそうな皿はそれまで割れずに、ラックの中に鎮座していたかもしれない。
ちなみにシュレーディンガーは、この一見パラドキシカルな理論を批判するため、猫と密閉された箱とガイガーカウンターを用いた思考実験を提示したに過ぎないらしい。
批判的な立場をとった人間の名前が、例え話の秀逸さから理論の代名詞として後世に残ってしまったのは皮肉な話だ。
量子力学の世界と、猫や皿の生死というマクロな世界を同列に論じるのもどうかと思うが、私という観測者の存在によって、この皿はまず割れていることが、そして世の中にありふれた存在であることが、確かに確認されてしまったのである。
かけがえのないものと認識論
またしても私の中で不毛な犯人探しが始まるかに見えたが、奇妙なことに、私は再びこのガラクタに、なにか特別な価値を見出し始めていた。
確かにこれは大量生産品だろうが、今はなんといっても割れているじゃないか。しかも捨てられずに柄の異なるペアで、破片まできれいに残っている。何より、世界でどこを探したって、これと同じ割れ方をした「これと同じ皿」など見つける由もない!
かけがえのない宝物から不燃ごみへと転げ落ちたクラゲの皿は、しかし不死鳥のように蘇った。早速割れてしまった皿の修復方法を調べてみると、業者に頼むとか金継ぎするとか、中には牛乳で煮込むと元通りになるなんて記事も見つかった。
まだ助かる道はある。土くれからできたアダムの子孫である私には、目の前の破片ですら自分の一部に感じられて然るべきだったのだ。
カントは私たち人間の認識はあいまいで、感性、悟性、理性の三つのフィルターを介した概念的なものに過ぎないと言った。
しかし私は思うのだ。物事本来の姿形を捉えることはできなくても、いや、できはしないからこそ、人間の認識にはゴミを宝物に変える力があるとも言えるのではないだろうか。
イノベーション
私は急いで思い出の欠片たちをかき集め、これ以上壊れることの無いよう新聞紙で厳重にくるむと、袋に入れて慎重に押し入れにしまい込んだ。
割れた皿を元に戻す方法がいくつあるにしても、まずはこの喜びを言葉にする方が先だ。
当たり前で大切なものを一旦壊し、価値の本質を見極め、そして再構築する。私は今日、イノベーションを見つけたのだ。
今日の関数:
イノベーションの発見
= 0.9*割れていても特別な宝物 + 0.1*割れてしまったどこにでもある宝物
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今日の生き方をまじめに考える = f(使い古したフライパン)
あらすじ:使い捨てられたフライパン。かつて相棒のように使っていたはずなのに、今では市が指定するゴミ袋の中。まるで、ただその時が来るのをじっと待っているかよう。あれ、もしかして私ってモノを大切にできていないのでは?大切にするってどういうことか、ハルヒとアインシュタインに訊いてみた。時間を越えて読みたい第四弾。/ やまびこ恵好
- 使い古された記憶
- 本気と大切のデリケートな関係
- 新しい記憶
- 捨てられない記憶 1
- 捨てられない記憶 2
- 思い出すものと忘れられないもの
- 幼い頃の記憶
- 確実なようで曖昧な記憶
- 記憶と価値の相対性
- 記憶を大切にするという生き方
使い古された記憶
昨日、古いフライパンを捨てました。
「古いフライパン」といっても、言葉から連想されるような、レトロで愛らしい、もしくは立派で頑丈な鉄製のパンとは程遠いものです。家電量販店で大量にぶら下がっているのをよく見かけるような、地が薄くて深型の、ポップな赤色のフライパン。
そんな安っぽいありきたりな見た目でも、買った当初は軽い・深い・くっつかないの三点拍子がそろった、非の打ちどころの無い立派な道具でした。
毎日の食事で大変お世話になったのは言うまでもありませんし、表面のテフロンが剥げて、黒い塗装のさらに下、鈍色に光る合金が露出するまで使い込んだ、まぎれもない私の愛用品です。
でも昨日、金物ごみの日に捨ててきました。理由はまったく簡単で、ここまで使い倒すとさすがに不便極まりないからです。かつてはどんな焦げ付きも寄せ付けなかったボディが、今では磁石のようになんでもくっつけてしまいます。
ちなみに本来はIHにも対応していましたが、ガスの強火に晒され続けた影響で薄い底面が膨張し、クッキングヒーターに点でしか接触できいようになってからは、まったく使えなくなってしまいました。
ガラス窓の付いた、中身の見やすい専用の蓋もきっちり歪んで、もとの気密性は失なわれてしまいました。
本気と大切のデリケートな関係
これらは当然、私の使い方が悪かった所為です。こういう地の薄いフライパンが、家庭用コンロの火力でも十分変形してしまうなんてことは知りませんでした。
それに男の料理は炎の料理。味覚の追求と自己陶酔の狭間で焼き面の温度管理に目覚めた私は、この繊細でいたいけな器具を中華鍋のようにグラグラと加熱し、鉄板焼き店のようにガシガシと削って使っていました。
正直、こう何年も私の無茶振りについてきてくれたのことの方が奇跡に近いと思います。
新しい記憶
仕方なく半年前、新しいフライパンを購入しました。
鉄よりは伝導性が高く、アルミよりは遥かに蓄熱の良い特殊合金を使ったもので、お値段は持っていた物の倍以上。初めてそれを用いてステーキをこしらえた日のことは、今でも忘れません。
使い心地はまさに雲泥の差、月とすっぽん、有り体に言ってダンチ、まったくもって次元が違いました。
肉を展開した直後からの圧倒的な温度持久力。そしてわずかばかり失った熱を徐々に取り戻す確実な回復力。確実な火力で肉汁の吹き出す輪郭は、しっとりとしつつも美しいメイラード反応に縁取られ、しかし脂肪分の過剰な流出や余計な焦げ付きは生じません。
道具一つとっても、ここまで違うものかと戦慄しながら頬張った肉片のジューシーさを、伝え切れない私の拙い文章力が残念でなりません。
捨てられない記憶 1
火力・持久力・回復力を備えた、RPGで言えばチート級に頼もしい彼(?)の虜になった私でしたが、しかしながら半年間、古い方のフライパンを捨てられずにいました。勇者よ、それをすてるなんてとんでもない。頭の中で誰かが叫ぶのです。
どう合理的に判断したところで、今後活躍の機会は皆無であろうと判断できるにも関わらず、擦り減ってまばらになった塗装の境目に、私は自らの料理上達の日々、レベルアップの軌跡、すなわち私の人生を見たのです。
長く使った物には魂が宿るなんて話がありますが、コンロに打ち付けられてボコボコになった底面ですら、私には自分の一部に思えたのでした。
捨てられない記憶 2
ふと身のまわりをよく見てみると、私はこれとよく似た、捨てられなくなってしまった様々なモノたちと共に暮らしていました。
錆びついて切れなくなった安価な包丁。トレンドの過ぎ去った、もしくはサイズの合わなくなってしまった洋服たち。高校生の頃、元カノにクリスマスプレゼントで貰った手編みのマフラー。
今後何かの拍子に見かけることがあったとしても、まず使用することはないだろう”ゴミ”たちが、狭苦しいワンルームの隅からひょっこり姿を現したのです。
思い出すものと忘れられないもの
頭の中をBUMP OF CHICKENの『分別奮闘記』が流れ始めます。ケルト音楽を思わせるイントロに続いて、捨てられなくなったゴミたちへの鎮魂歌のような、しかし朗らかな復活の呪文を紡いだ歌詞が踊ります。
弾んだ明るいリズムとは対照的にどこかもの寂しげな言葉たち。新しいフライパンを手に入れた歓喜に身を震わせながらも、捨てられるべきものたちへの哀愁を噛み締める、今の私のための音楽。
久しぶりに聴きたくなって、すっかり埃をかぶった本棚の上のほうからCDを引っ張り出そうと探っていると、横にあった別のものがパサリと床に落ちて来ました。どうやら書籍のようです。
文庫本サイズで、表紙には奇怪なポーズをとった美少女が描かれている、気持ち多めに挿絵の入った小説。ライトノベル。これも、私に忘れられていたモノたちの一つでした。
見上げると懐かしいタイトルが並んでいます。『しにがみのバラッド。』、『人類は衰退しました』、『キノの旅』。年代がばれるラインナップですが、これでも半分は実家に置いてあります。
キノの旅 the Beautiful World (電撃文庫 し 8-1)
- 作者: 時雨沢恵一,黒星紅白
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2000/07/10
- メディア: 文庫
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中でも目に留まったのはラノベ界の金字塔、著:谷川流、イラスト:いとうのいぢの『涼宮ハルヒの憂鬱』。こればっかりは最近、私が贔屓にしているスマホゲーム『シャドウバース』でコラボイベントが始まったばかりということもあり、忘れようがありません。
いつの間にか聴くはずだったバンプのCDを脇に置いて、少し黄色くなったページを一枚ずつめくっていくうち、私はこの文庫本の群れに熱中していた幼い日のことを思い出していました。
幼い頃の記憶
中学の教室、朝10分ばかりの読書時間では飽き足らず、休み時間も部活の後も、指の跡が付くくらいライトノベルにのめりこんだ日々。
あのときしっかり勉強しておけばと感じる自分のおっさんらしい後悔に、鼻の奥がむず痒くなってきました。しかし当時の私にとってそれは、地方の息苦しい男子校生活から解き放ってくれる、何にも代え難い有意義な時間だったのだと思います。
冷静にタイトルを見比べてみると、私はどうやら物語の時空や時間軸が比較的自由に描かれている作品が好きだったようです。
京都アニメーションの手で劇場版として製作された『涼宮ハルヒの消失』は、そんな空間も時間も超越した物語でした。
確実なようで曖昧な記憶
私たちがいつも当たり前だと思って過ごしている日々、人によっては不満や退屈にあふれた日常を見つめ直したくなる、計算と情熱にあふれたお話。
忘れずに覚えておくことの大切さ、忘れられてしまったものごとの大切さ、そしてそれらを丁寧に思い出すことの大切さが描かれています。
古いフライパンを捨て去り、例えその存在すら忘れてしまったとしても、私が今日華麗に鍋を振ることができるのは、あの軽くて深い真っ赤な相棒と一緒に、少しずつ経験値をためていった事実の結晶なのです。
大好きだった人と別れなければならない痛み、それを次こそは後悔しなくて済むよう忘れずにいることと同様に、眼前に広がる今日を乗り越えていく途中途中で、ふと思い出す懐かしいメロディーもまた、尊いと思えること。
いまはどんなに価値が無いと思っているものでも、明日には心から大切にできるかもしれません。今日、後生大事に抱えているものごとでも、来年には忘れてしまっているかもしれません。
記憶と価値の相対性
私たちは常に目の前の事象を過去に紐づけ、価値を比較して次の未来を選択しながら生活しています。
言い替えれば、過去の価値は現在の価値と相対化され、ある時は私たちの意識の表面にぼんやりと現れ、またある時はとことん無価値に、忘却の彼方に葬り去られていきます。
しかしアインシュタインの特殊相対性理論によれば、過去・現在・未来という考え方は幻想に過ぎず、現在という瞬間にすら絶対的な意味はないそうです。曰く、時間は流れるものではなく、そこに在るものだとか。
事象を観測する視点が変われば時間の相対性も変化し、私からは二つ同時に起こったように見える物事も、他の人から見ればタイミングを前後して起こっているように見えることがある。それはちょうど、記憶やそれに紐づく価値の相対性とも深い関係がありそうです。
具体的に言えば、ある私にとって、あの古いフライパンはもうゴミに出して良いと思える程度の価値しかないのに対して、この文章をしたためている別の私にとっては、少し勿体なかったような気もする、ということです。
異なる観測点から見たフライパンの価値、それに紐づいた思い出・記憶の価値は、はっきりと異なっています。
記憶を大切にするという生き方
いまひとつ残念でならないのは、私のこの表層に浮上している意識単体では、どちらも同じ「私」でありながら、異なる「二人」の感覚を同時に(あるいは別々に)認識することができないということです。
フライパンを実際に捨ててしまった時空間の私=今ここにいる私には、記憶の向こうに確かに存在する”捨てられない私”の気持ちは、もはや認識不可能だからです。
記憶や思い出を大切にするということは、こういった、時間や空間を越えた現象や価値を大切にする、責任を持つということだと思います。
とはいえ、今日を精一杯生きる私たち一般人にとって、時空間の異なる無数の自分からの視線を意識しながら生活することは至難の業だと言えるでしょう。
記憶しやすいよう、あえて昨日・今日・明日の自分という表現を用いて、日々の意思決定に役立つフレームワーク、あるいは記憶を大切に生きるための行動の指針を言葉に落とし込むとするなら、次のように表現できるのではないでしょうか。
一、明日の自分が誇れることをせよ。
一、今日の自分が満足することをせよ。
一、昨日の自分が夢描いていたことをせよ。
一言にまとめると「後悔しない生き方をせよ」という事でしかないかもしれませんが、思い出の中の自分が持っている意思を尊重したり、現在の自分を記憶の一部として捉えたりという超時空的観点までをも説明している分、いくらか上等なものに仕上がっているのではないでしょうか。
いつ・どこの・どんな自分も同等に自分として大切にできるかどうか。そしてそういう生き方が振る舞いとして実行できているかどうか。
上のフレームワークに照らして、今日は『涼宮ハルヒの消失』を観ながら、もう一度自分自身を見つめ直してみようと思いました。
今日の関数:
今日の生き方をまじめに考える
= 0.4*センチメンタリズム + 0.6*特殊相対性理論
実家に帰ろう = f(健康診断に行く)
あらすじ:「なぁ、おい」「私は"おい"なんて名前じゃない!」— 駅前でカップルが痴話喧嘩を繰り広げていた。一年越しの健康診断。お客様番号で呼び出されることに違和感を覚えた私は、名前について悶々と考え込んでしまった。なに大丈夫、これだけ人がいるのだ。次に呼ばれるまでの時間はたっぷりとあるはずだ。そんなこんなで第三弾。 / やまびこ恵好
- 真冬の健康診断
- 記号:「69番のお客様」
- 噫無情(Les Misérables)
- 人間疎外
- 記号化された人々
- 私の本当の名前、本当の自分
- いのちの名前
- 「私」ってそれ、どこからどこまで?
- 名前は記号でしかない。でも「でしかない」なんてことはない。
- 私と私の、正義の戦い
- 愛する我が子
健康診断に行ったら、ウエストが減っていた。
これはここ数年の自分にとっては快挙である。着々と脂身を蓄え続けてきた私の怠惰な生活に終止符を打ったのは、半年前に入会したフィットネスクラブだろう。ロゴが紫色で夜中まで開いているアレである。
半年間、壁に向かって黙々とハムスターの真似事にふけった甲斐があったというものだ。
真冬の健康診断
私の会社では、毎年10月~12月頃に定期健康診断が実施される。体調を崩したのかマスクをした、いかにも残念な結果が出そうな顔色の中年男性を横目に、いそいそと元の服装に着替え直す。
今日は、私もマスクをしてこなかったことをひどく後悔した。あちこちから苦しそうな咳の音が聞こえる待合室に、半日も押し込められていたのだ。法人向け健診の中でも、このシーズンはさぞ不人気に違いない。
東京新宿は小雨と少しの風、それからこの冬一番の冷え込みに見舞われていた。コートを羽織って更衣室を出る。帰りがけに受付で、健診結果の記入されたファイルと番号の書かれたバッジを回収された。
記号:「69番のお客様」
これを見るのはあまり良い気分がしない。このバッジというのが、かれこれ半日、私を「69番さん」というただの記号に貶めていた張本人だからだ。
しかもよりによって「69」。いやに美しい図形である。点対称で、太極図の陰陽勾玉巴のようであり、また二匹のウロボロスのようでもある。そういえば私は蟹座だ。原子番号69番は銀白色の美しい金属ツリウム。一瞬、これなら悪くないかも、と思えてしまった自分に愕然とした。
私にはちゃんと一個人としての名前がある。
いかに、スマホ使用OKの神待遇で迎えてくれようと、ご丁寧にフリーWi-Fiまで用意してくれていようと、私の耳にタグを打ち付け、家畜のごとく取扱う行為は、人格に対するれっきとした侵略である。
たとえ、私のお気に入りの雑誌「散歩の達人」を、こっそりラックに忍ばせていようとも、だ。
待合室のベンチはぎゅうぎゅう詰めだ。皆一様に下を向き、希望など何処にも存在しないことを悟る。ここからの脱出は叶わない。私は家畜の次に牢に押し込められた囚人たちに思いを馳せた。
噫無情(Les Misérables)
囚人番号24601、ジャン=バルジャンとジャベールのやり取りが思い出される。(私がレミゼの話題を出した際は、是非2012年の映画のシーンで思い浮かべてほしい。)
「私はジャン=バルジャンだ」と訴える囚人に対して、「そんなことより、私はジャベールだ、24601番」と冷徹に言い放つジャベール。残念なことに、今日の私にはそんなコミュニケーションすら許されていなかった。
粛々と列に並んで、番号を呼ばれたら立ち上がり、処置を受けてまた列に戻る。中学校のジャージみたいな健診衣に身を包んだ男たちが、フィットネスクラブのハムスター諸君のように、見えないベルトコンベアの上で流されていく。
担当者の方はというと、バスの自動音声によく似たお決まりの台詞を早口でまくし立て、ロボットアームのような的確な手さばきで、囚人たちを次のラインに送っていく。
どうやら彼らジャベール側も、私たちと同じ無機質な息苦しさをひしひしと感じ取っているようだ。こうなってくると、いよいよ人間がただのパーツ、歯車、および数学的関数、あるいは記号そのものになってしまったかのような錯覚に陥る。
人間疎外
社会科の教科書に載っていた「人間疎外」というワードが頭をよぎった。カール・マルクスは労働とその成果からの疎外を以ってこの言葉を操ったという。
今日の私の場合は実感あるインタラクションからの疎外、すなわちコミュニティの持つ人情とか温かみからの締め出しのことを言っているのだから、どちらかというとヘーゲルの人間疎外の考えに寄り添うものだろう。
こんなところで匿名で駄文を垂れ流している私の言葉では説得力に欠ける内容かもしれないが、私たちにはそれぞれ、親かそれに類する人間から貰い受けた本当の名前があるのだ。
忌々しい69番のバッジを受付に返却し、ビックルの小さなボトルと、人間としての尊厳を受け取る。
私はやっと、ひんやりとした外気と共に、この身の解放感を胸いっぱいに吸い込むのだった。
記号化された人々
しかしそれもごく一瞬のことだ。私はとっくに気が付いていた。我々は既に、沢山の”番号”という鎖を引きずりながら生きていたことに。
たとえば携帯番号。連絡先の交換もLINEで済ませる人が増えたようで、以前よりも身分証としての意味合いが拡大したように思う。
学籍番号や社員番号、会員番号というのも、どこかに所属する上では欠かせない。免許証の番号でその人の違反歴や紛失歴がわかる、なんて話も聞いたことがあるし、数年前には空からマイナンバーが降ってきた。
のうのうと暮らしているうちに、いつの間にか番号で管理されることに慣れてしまっていた自分が恥ずかしい。
ほかにも、私たち個人を指し示す記号という意味では、アカウント登録に使うメールアドレス、ID、SNSのハンドルネームといったものも、同様に考えて良いだろう。
ただしこれらは多くの場合、自分の手で設定することができる分だけまだマシな方だ。
私のようにWeb上に別の人格をでっち上げ、自分が傷つかない場所から好き放題に喚き散らすことだってできる。
反対に、世の中には自らデザインすることすらまかりならぬ上、生涯延々と憑きまとってくる究極の記号が存在する。
いや、ちょっと待ってくれ、それじゃあさっき、私がやっとの思いで取り返したはずの氏名ですら、ただの記号に過ぎないというのか。
私の本当の名前、本当の自分
記号は我々人類が、ものごとを識別するために便宜上しつらえた目印だ。言い替えれば、人類は森羅万象のものごとに対し、勝手にラベルを貼り付けて回っているお節介集団でもある。
人間の名前であろうと例外ではない。「太郎」や「一郎」は嫡子、つまり最初に生まれた子供であるという意味の記号だ。「二郎」「三郎」に至ってはその後続で何番目、くらいの意味しか持っていない。
この順番を付ける行為が、財産である「家」を引き継ぐことが社会通念として成立している国々において、極めて重要な意味づけであったことは疑うべくもないが。
どこかに、どこかしらに、今まさに管理社会の息苦しさを感じて押しつぶされそうになっているこの「私」を指し示す、本当の名前があるのではないだろうか。
ひょっとしたら、川のせせらぎや森の木々、生い茂る葉からこぼれ落ちる陽射しのひとつひとつにも、私たち人間が知らない本当の名があるのかもしれない。ますます、先日助けた蜘蛛に名前を問うべきだった。
いのちの名前
本当の名前といえば、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の主人公の少女は、結局どちらの名で呼ぶのが正しいのだろうか。
湯婆婆に名前を取られてしまうと、以前の記憶は次第に失われていく。そしてジワジワとあの奇天烈な世界に同化され、しまいにはもとの名前すら忘却の彼方へ消えて行ってしまうのだ。
いくつか他所のブログ様を覗いてみたところ、お優しい皆さんは少女のことを「千尋」と呼んであげていた。
しかしまぎれもなく、視聴者にとって彼女は「千」である時間のほうが長いのだ。
私も同じように、自分の本当の名前を忘れてしまったに違いない。私には、それを取り戻すために生きることができるだろうか。
「私」ってそれ、どこからどこまで?
否、そんな物が存在しないということは、万物の霊長、科学の権化たる私たち人間が一番良く知っているはずだ。
「私」の「上半身」の一部として「腕」があり、その先端には「指」が、さらにその先端に「爪」、それを構成する「タンパク質」の「ケラチン」、18種類に及ぶ「アミノ酸」、「システイン」。分子、原子とその中の原子核、電子、中性子、クオーク、まだこの先があるかどうか私は知らない。
私は確かにこのキーボードを叩く指たちを自分の一部だと認識できるが、爪から先はちょっと怪しい。昨晩、たくさん切り捨てたばかりだ。
ある者にとって私は人間であり、タンパク質の塊であり、またある人にとっては、このアイデアや考え方ですら私を構成する要素の一部だ。
パソコンのディスプレイに踊るこの文字群こそが私なのか、それともそれらをぼんやり眺めているのが私なのか、はたまた眼球内の錐体細胞と桿体細胞が受容した光を、電気信号として捉えて初めて私なのか。
私が勝手にラベリングしていた「私」の境目は存在せず、全ては分割可能であると同時に分離不能であることがわかる。
そう、本当の名など、どこを探せど見つかるはずもない。
名前は記号でしかない。でも「でしかない」なんてことはない。
私たちは考えずともこのことをよく理解している。自らを証明するものは、実はどこにもない。DNAの中ににすら、無い。
自分の存在が足元から崩れ去ろうとするその瞬間、人間はなにか意味にすがろうとする。私が存在する意味、私が私である意味。それを実感することができて初めて、私は自我の境界を認識することができる。
こうして逆説的に、身の周りにちりばめられた記号、すなわち名前は正当化される。ものごとに記号を振り、意味を付加する行為で以ってやっと、私たちは自分自身の存在を実感していたのだ。
我名付ける、故に我あり。デカルトは考える自分の存在を強く信じたが、私にとってその自我とは、他者を名付ける行為によってぎりぎり形成されたあいまいな何かのようにしか思えなかった。
自らの存在に対するアンチテーゼとして記号に疎外された私の精神は、しかしその記号によって存在の実感というアウフヘーベンに辿り着く。
これにより、私の存在は約束されたかに見えたが、そう世の中は易くない。
ものごとを二つに分割するという行為は、ひとときの安心と同時に争いを生じるものなのだ。
私と私の、正義の戦い
そう、人間が各々に正当化していった意味と、その記号は対立していく。
私がAだと名付けたはずものとは異なる現象を他人がAと呼ぶとき、私はとても不安な気持ちになる。私の心の深いところで、記号を付与した自分自身を、真っ向から否定されたかのように感じるからだ。
本家、本革、本マグロ。私の名付けたAこそが本物であり、それを手掛けた私こそが存在する。何かを自分のものにしたい。自分だけは特別でありたい。代替不能な存在でありたい。パーツ・歯車・関数なんかにはなりたくない。
私たちが自己の存在を信じ求める限り、他者との対立は避けては通れない道なのかもしれない。そうなると他者と対立しない唯一の方法は、己の存在をあきらめること、すなわち無我の境地に達することに他ならない。
自意識の塊みたいな私には到底できそうにないことではあるが、これを達成できたなら、たぶん私の意識はこの世から解脱できるだろう。
愛する我が子
自らの存在に意味がないからこそ、必死にそこに意味を見出そうとする。自分の輪郭を切り取るように、他者に自分の存在を刻み付ける。名付ける。
そうなってくると、名付けられた方が幸せか否かは、名付ける者のセンス次第だ。「69」なんてのは最高にかっこいいかもしれない。
私は物理的には両親の存在によって生じた現象で間違いない、多分。しかし、彼らの意識や自我は、私という現象を名付けることで、かろうじて存在を保っていたのだ。
年末はひさびさに実家に帰ろう。
私は自分の名前に込められた意味を、もう一度聞いてみたいと思った。
今日の関数:
実家に帰ろう = 0.7*自分の存在 + 0.3*人間疎外
理不尽な世界に抗うということ = f(ちっちゃい蜘蛛)
あらすじ:世の中には理不尽があふれている。部活、恋愛、会社、命。その宇宙規模で覆しがたい恐怖に相対したとき、私たちはいったいどうすればいいのだろうか。小さな蜘蛛を逃がしてやった話から、少しずつじっくり考えてみようという、それだけのコラム第二弾。/ やまびこ恵好
- ことの顛末はこんなかんじ
- 命か、プログラムか
- 己に恥をかかせるのは、いつも自分自身である。
- アダンソンハエトリグモ
- 害虫ってなんだよ、失礼な。
- phobia
- 理由のない敵意
- 一方的な戦争
- 宇宙的恐怖
- 理不尽に立ち向かうということ
視界の端を、黒っぽい点が跳ねた。
まさに記事がひとつ書き上がらんというところだったため少し億劫だったが、小さい、黒くて、動くもの。となるとぞっとしない。ゆっくりと視線を右に移していくと、なるほど。小さなクモがデスクの上に侵入していた。
ことの顛末はこんなかんじ
地上10階以上のオフィスビルで、虫を見かけることはほとんどない。とはいえ、たまにこうやって、商品サンプルや社員の荷物なんかにくっついて迷い込んでくることがあるようだ。
隣の席に向かって、「てーん、てん」と跳ねて行くので、慌てて捕獲しようと手を伸ばす。でもこれがなかなか捕まらない。学童の時分にはよく、野原でバッタやらカエルやらを追いかけ回したものだが。
クラフトボスの空ペットボトルによじ登り、私の左手をすり抜けたクモは、眼鏡ケースへと着地。多彩なアクロバットを決めて、黒のスマートフォンに足場を移そうと跳躍したところを、右手でそっと捕らえられた。
潰さぬように、でも逃がさぬように力を込める方法については、まだ身体が覚えてくれていたようだった。
自宅であればこのあと窓からほいと投げ捨てて終わりとするところだが、ここには開け放てる窓などあるはずもなく。仕方なくオフィスを抜け出て、エレベーターを呼びに行くことにした。
命か、プログラムか
午後4時ごろのことだ。まだどこの階も終業前であろう。にも関わらず、下のほうで閊えているのか、エレベーターはなかなか到着しない。待っている間、握りしめた右手の中がガサゴソと騒がしくなってきた。
彼がこの手の中で暴れるのは、自分の身を守るために体に組み込まれたプログラムがそうさせるのである。人間はこういう場合、抵抗が無駄だと感じて何もしないことを選択するらしい。
クモは理解せずただ暴れる。プログラミング的な反射だけではなく、未来を見据えた思考を司るからこそ、人間にのみ魂が宿るのである。
さて、果たしてそうだろうか。
むしろ、どんな絶望的な状況であっても、それを打開するために手段を尽くすこのクモの姿勢の方が、使命感と生きる力、そして魂を感じる生き方なのではないだろうか。
私はこのこそばゆい拳の中に、小さな命を感じていた。
そうなってくると、もうこのままプチリと握りつぶしてしまった方がお互い楽になれるんじゃないか。なんてものぐさなことを考え始める。
しかし、手を綺麗にする手間や、このいたいけな命を奪う罪悪感の処遇についてぐるぐると考えているうちに、エレベーターが到着してしまった。
待たされた甲斐あって、小さなゆりかごは、そのまますいーっと1階まで直行してくれた。これが途中で何回も止まろうものなら、やはり小蜘蛛の命はこの世に無かったであろう。
己に恥をかかせるのは、いつも自分自身である。
降り際、向かいから乗ってくるスーツ姿の男性と、ばっちり2秒ほど目が合ってしまった。
何やら怪訝そうな顔つきでこちらを見るので、私は右手の小さな秘密を見透かされたような気がして、大変恥ずかしい気分になった。
もちろん「クモの霊魂論」が私の口から洩れ出ていたということではない。でも、ついつい見ず知らずの人の目が気になってしまうくらい、その時の私は繊細な心持ちだった。
今にして思えば確かに、開いた扉の向こうに拳を握り締めた若造が神妙な顔つきで立っていたら、怪訝に思うのも無理はないだろう。恥はいつでもかき損である。
アダンソンハエトリグモ
11月の冷え切ったコンクリートに解き放たれたクモは、一瞬何が起こったのか分からない様子でじっと立ちすくんでいたものの、私が南無南無と手を合わせると、また「てーん、てん」と跳ねて、生垣の中へ消えていった。
デスクに戻って、そういえばなんというクモなのか、彼に訊ねるのを忘れたことに気が付き、「小さい蜘蛛 跳ねる 黒」でGoogle検索してみることにした。※ガッツリ虫の画像が出てくるので注意!!
家で稀に見かけるあの小さなクモは「アダンソンハエトリ」と言うらしい。巣を作らず、自分の脚で獲物を捕らえるハンター。その名の通り小さなハエやダニ、”G”の赤ちゃんなんかも捕食の対象のようだ。
害虫ってなんだよ、失礼な。
私は小さいころからアリや蚊、ハエなどの「害虫」は容赦なく殺害するよう教育されてきたが、クモだけはヤツらを捕食する「益虫」で殺してはならないという家庭も少なくないらしい。これは大変身勝手な線引きだと思う。
「雑草という草はない」という言葉が、昭和天皇のお言葉か、牧野富太郎のお言葉かという問題はさておき、クモを殺したいほど気持ち悪い、憎いと思う人にとって、彼らは立派な害虫である。さっきの論で言えば、我々にとっての「害虫」を捕食せずに死んでいくクモの扱いはどうなるのか。そのへんをはっきりしてほしいものだ。
線引きがあいまいな害虫論であるが、”G”、すなわち黒い「奴ら」については、全世界共通、ほぼ満場一致で害虫の王様に選ばれるに違いない。
ちなみに、私があのクモを捕らえてしまったから、かどうかは分からないが(たぶん無関係だと祈りたい)、あの数日後、オフィスに「ヤツ」が出現するプチ騒動があった。その折には、同期入社の女性が瞬く間に命を奪ってしまった。たくましい限りである。
小さな躯体でありながら、単体で大人を絶叫させ、逃げ惑わせ、恐怖のどん底に叩き落とす存在。奴らに対する嫌悪感、敵意と形容しても良いくらいの憎しみは、いったいどこから来たのだろうか。
phobia
ハエのようにうるさいわけでも、蚊や蜂のように人を刺すわけでもない。実害のないこの説明不能な恐怖的感情を、英語で「phobia」と言うらしい。先述したクモへの理不尽な恐怖ならarachnophobia、高所恐怖症ならacrophobiaといった具合だ。※ここに限って検索は自己責任でお願いしたい。
”G”フォビア形成の要因には様々な学説がある。太古の昔、まだ巨大だった「奴ら」が哺乳類を捕食していた頃の恐怖を遺伝的に覚えている説、は確かに興味深いが、猫は”G”に恐怖を抱かない。むしろ積極的に狩りに行く。
では猫より強い人間が彼らを恐れる理由は何か。それは「親が怖がるから」だそうだ。私はこの経験的トラウマによって形成される論を推したい。
子供にとって、自分を普段あやし、食事を与え、安心をくれる存在である母が、そいつが出た瞬間悲鳴を上げて逃げまわるのだから無理もない。
私は幸か不幸か、大学時代ニュージーランドの田舎にホームステイした折に「奴ら」との同居生活をたっぷりと経験できたおかげで、恐怖心だけはしっかりと克服して帰ってくることができた。
理由のない敵意
確かに恐怖は克服できたものの、しかし敵意だけはどうしようもなかった、というのが私なりの結論だ。奴らが出現すると、どうにも命を奪わないと気が済まない。
火星に送った黒い生命体が地球を侵略してくる『テラフォーマーズ』という漫画は、ご存じの方にはまだ記憶に新しいだろう。
テラフォーマーズ /貴家 悠・橘 賢一 ヤングジャンプコミックス(株式会社集英社)
内容といえば、”人型化した害虫エイリアンに、昆虫の力を付与された改造人間が立ち向かう!”という、大変なイロモノだ。
しかし、今の文脈の中でじっくり考えてみると、人類にとって恐ろしく普遍的なテーマを扱った作品であることがわかる。
そういえば日本では昔から、正義のバッタ人間がバイクに乗って、子供たちを守り戦う特撮番組が根強く支持されているし、それほど突飛な内容でもないのかもしれない。
作中にはアシダカグモの能力を持った青年が、「奴らの天敵」として暴れまわるというシーンがある。この中でもどうやらクモは益虫カウントらしい。
序盤では人間が虫けらのようにただ殺されていく。人間も反撃のために、敵を虫けらのように殺していく。
お互い、相手を取って食べるわけでも、カラスや猫のように戯れで命を奪うわけでもない。「そこにいるから」命がけで殺害する。人間が奴らに抱く感情を、構図を入れ替えてうまく表現していると思う。
ヒトのコミュニティ内における敵意には、あいまいながらも大方なにがしかの理由がある。しかし奴らの敵意に理由はない。その上、現代の日本に生きる私たちは、この「理由のない敵意」を向けられることにめっぽう慣れていないのだ。
もしかしたら、世界的に殺し合いをするしか無かった時代、人種差別や奴隷制が公認されていた時代には普遍的だったかもしれないこの感情を、まざまざと想起させられる。ここがテラフォーマーズのセンセーショナルな点だろう。
一方的な戦争
汚い方向に話が逸れてしまったので、筋を戻そう。
それだけ、私たち人間は、身の回りの小さな生き物たちに対して、一方的な戦争を仕掛けていることになる。あるいは暴力と言ってもいい。
かのクモがもし万が一、隣のデスクに座る女性社員のもとに到達していたら。私が虫を逃がしに行く寸暇を惜しんで仕事に励む勤勉な社員だったら。あるいはエレベーターが来るのがあと少し遅れていたら。彼の命はきっちりしっかり失われていたことになる。
それも彼自身、何が起こったのか理解するまでもなく。
人はともすれば自分が理性的で客観的なリベラルな存在であるという思い込みに支配されがちであるが、我々はむしろ、常に自己、己の帰する集団、種族にとって大変利己的に判断して行動している。
人間様の気分次第、タイミング次第、ご都合次第の理不尽やりたい放題である。
宇宙的恐怖
私は別にジャイナ教の教義に感銘を受けたとか、動物愛護の精神からこういうことを書き殴っているわけではない。この覆し難い理不尽は決して他人事ではないのだ。
江戸幕府もモンゴル帝国もローマもオスマンも、どんな強者でもいつかは敗れてきた。日本という国家も、もはやここから経済戦争的な逆転の望みは薄い。まして人間を打ち破るのがいつまでも人間ばかりとは限らない。
いいやそれどころか、私たちは日々ある一定の全能感の中で安心して生活しているものの、その実際は理解の及ぶべくもない巨大な環境によって左右されている。
生まれた家、地域、国、経済、イデオロギー、宗教、あるいは世界、種族、災害、地球という惑星、あるいは宇宙からその外側まで。
そういう、個人には到底計り知れない理不尽のなかで偶然、観測可能な現象として発生し、そして一瞬のうちに消滅していく。
たまたま身近に自分たちより強大な生命が見当たらないだけで、科学者が顕微鏡で微生物を眺めるように、我々も常に壮大な世界から覗き込まれているのではないか。
完全にクトルゥフ神話TRPGのやりすぎであるが。さて、この巨大な理不尽の中で豆粒大の命に過ぎない私たちひとりひとりにできることは、いったい何だろうか。そしてそれにはどれだけの意味があると言うのだろうか。
理不尽に立ち向かうということ
この意味を考えることが、生きる意味を考えるという事なのだとしたら、現代社会の至上命題とされている、ある一定の「全体」の中で勝ち続けることは不可能に近い。
つまり、「一番になること」に意味を見出し続けるのはとても困難なことだとわかるだろう。
上には上がいて、全体にはさらにそれを包括する全体がある。クラスで一番、じゃあ学年では何番?じゃあ県では?このループにはまった瞬間、我々はこの絶望的な恐怖の前に、ただ立ち尽くすしかない。
意味を自分の外側に求めるのは難しい。そうなると自分に意味を見出してくれるのは自分だけだ。
この考え方は極めて現代的かつリベラルな思考だと思う。近年、ファッションやメディア、価値観といった様々な概念が個別化していることも、大方この影響だろう。
一人の人間にとって、ネットワークから広く見渡せる今日のグローバル世界は、あまりにも大き過ぎたのだ。
せめて私たち非力な人間にできる事と言えば、あの小さな狩人のように慎ましく「てんてん」と跳ねること。
そして、できるだけ恥をかかないように、例えば”小さな虫の命を助けてやる”などの等身大の善行をせっせと積み上げていくことくらいのものだ。
それが、宇宙的理不尽に立ち向かう唯一の方法だ。
さて、いよいよ、果たしてそうだろうか。
「進撃の巨人」という漫画はさすがにご存じだろう。
小さな狩人たちが迫りくる巨人に立ち向かうというお話だ。人間が虫けらのように命を奪われていく様は、テラフォーマーズに通じるものがある。
進撃の巨人 /諫山創 講談社コミックス アニメ:MBS (毎日放送)
一世を風靡した本作には、理解不能な恐怖の前に人間が立ちすくむ様が、ダークな世界観の中にありありと描かれている。
私たち一般人の、いたって普通の反応、慎ましく、理不尽にただ流されていく人間の無力さにも共感を覚えた。
ただし主人公は屈しない。常に抗い、戦い続ける。真実を求め、自分の小さな世界を、規定された「全体」を、外へ外へと壊し続ける。
私たちは調査兵団の一員になった気分で、そんなヒロイックな姿に羨望の眼差しを送る傍観者だ。それでいいと思える人はそれでいいのだと思う。私も大概あなたの仲間だ。
しかしあの小さな狩人は、暗いエレベーターホールで私の掌の体温を感じながらも、私に命を握られているその瞬間も、あきらめずにもがき続けた。
どんな絶望的な状況であっても、それを打開するために手段を尽くす姿勢に、私は使命感と生きる力、魂とそして確かな命を感じたのではなかったか。
案外と、ちっぽけな虫けらのような私たちにも、できることは沢山あるのかもしれない。私にとってそれが何かという問題については、とりあえずこれを書き上げてから考える所存だ。
この建物に開け放てる窓がなくて、本当に良かった。
今日の私の関数:
理不尽に立ち向かうこと
= 0.5*意味への渇望 + 0.5*宇宙的恐怖